アルゼンチンのお菓子かよ
アルゼンチンのスーパーで売っているお菓子はどれもとんでもなく大味だ。一種類の甘さしかない。食感もだいたい悪い意味で歯ごたえがあり、口の中がジャリジャリになる。
なんていうか、雑だ。
だから私は「雑な感性の意見」に出会うといつも、アルゼンチンのお菓子を思い出す。
最近で言えば、貧困自己責任論で炎上した落語家のツイートだ。
もともと140字以内のつぶやきをさらに要約すると(その人を叩きたいわけじゃないのであえて引用はしない)
・貧困は自分のせい
・貧困を政府のせいにするな
・日本は生活保護もあるから貧困でも生きていける
という内容だった。
それを読んで真っ先に思ったのは、「貧困家庭に生まれたとか、病気や怪我で働けなくなったとか、やむを得ない事情の貧困はけして本人のせいではない」ということだ。すでに大勢の人が同じことを書いていた(なのでこの部分に関してはこれ以上言及しない)。
この時点でかなり雑で視野の狭い意見だと思ったが、私がより雑さ(アルゼンチンのお菓子感)を感じたのは、この後のツイートだ。
そのツイートを要約すると
「自分は若い頃仕事がなくて2万円台のアパートに住んでチキンラーメンとコーンフレーク食べてたけど生きられたからみんな頑張れ」
えっ。
貧困って、その程度の話なの?
先の自己責任ツイートには「この国では、どうしたって生きていける」なんてたいそうな言葉があったから、もっとこう、生きるか死ぬかの瀬戸際の話をしているんだと思っていた。お腹が空いてもおにぎり一個しか与えられない貧困家庭の子どもとか、そういった次元の話だと思っていたのだ。
それが、「駆け出しの落語家がボロアパートで粗末な食事をしている」エピソードだった。
まぁ……そりゃあ生きられるよね。いざとなったら実家あるだろうし、生きるか死ぬかの局面になったら夢をあきらめて働くだろうし。そりゃあ政府のせいにするほうがおかしいよね、と思う。なんだか、拍子抜けした。
件の落語家は「この国での貧困は絶対的に『自分のせい』なのだ」と言い切っている。
この国での貧困。
片や、いつか売れることを夢見て下積み生活を送る落語家。
片や、お腹が空いてもおにぎり一個しか与えられない貧困家庭の子ども。
両者はまったく違う。「この国での貧困」というワードで一括りに語るのは、雑だ。
「括りが雑い!」と、千鳥のノブの声で思う。「雑い」という言葉をあえて使ってしまうほど、雑い。
「僕」を主語にして自分の経験を語ればいいのに。なぜ、自分とはまったく違う境遇の人間もいっしょくたに語るんだ。住んでいる国と困窮している状況が同じでも、そこに至る過程や理由はそれぞれ違う。一括りにするなんて雑すぎる。
アルゼンチンのお菓子かよ。
きのこの山とたけのこの里は味も食感も違うのに、それだけ繊細に差異を表現できる国なのに。この国を称える人のツイートが、なんとも雑だ。
件の落語家のように、他人について言及するときに無理やり自分の似たエピソードを持ち出して「全然ちげーよ!」とつっこまれる人がいる。
学生のとき、友人のチアキちゃんの親友が自殺した。自殺した人と私は面識がない。泣きじゃくるチアキちゃんを前に、どうしたら彼女の心が癒えるのか、考えていた。
すると、ジュンコちゃんが
「私、幼稚園のときにおじいちゃん病気で死んだけど、別に悲しくなかったんだよね。だからチアキちゃんの気持ちわかんない」
と言った。耳を疑った。
幼少期におじいちゃんを病気で亡くすことと、思春期に親友を自殺で亡くすことは、全然違うだろう。人の死という大きな括りで、気持ちを比べようとするなよ。括りが雑い!
そもそも、似た経験を持ち出してまで気持ちを比べる必要はあるだろうか。泣いて悲しむチアキちゃんに寄り添う。それだけでいいじゃないか。それに、チアキちゃんの気持ちに共感できないことをわざわざ本人に伝える意味もわからない。
このときの私はまだ、アルゼンチンに行ったことがなかった。
今の私がタイムスリップしてこの場に行ったら「アルゼンチンのお菓子かよ」と言ってしまいそうだ。
ジュンコちゃんもチアキちゃんも当時の私も、キョトンとするに違いない。
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