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【ショートショート】記憶相場

東の空は朝を迎えつつ、西の空には夜をまとった月がまだ居座り続ける静かな早朝。
とある進学塾に、けたたましくアラート音が鳴り響く。
「五分後に急激な記憶高の予想!全生徒に一斉通知完了!講師は授業準備!」と当直の塾職員は館内放送マイクに向け声を張り上げた。
同時に宿直室で仮眠をとっていた講師は飛び起きると、消防士よろしく階下の教室へ滑り棒を伝い降下する。
アラートからわずか一分後にはWebカメラに向け授業は開始された。レンズの向う側では幾千の生徒が眠い目をこすりながら勉強を開始したはずである。鰻登りに増える閲覧数がソレを物語っていた。
2080年。記憶の容量は人類全体で共有している資産だという事実が発覚し、各個人の脳の能力、いわゆる『賢さ』は記憶力とは無関係と結論づけた。
誰かが一つ忘却すると、最低一つ以上の記憶の枠が生まれるという相関関係が立証された。重要なのが一つの忘却に伴い記憶可能になる数が変動する点だ。すなわちより多くの記憶を定着させたい場合、多くの記憶可能枠が放出されている状態で学習を行った方が効率が良いのである。
それは『記憶相場』としてチャートに精緻化され日々変動を監視し、より効果的な時間に学習するスタイルへと変貌し教育機関を一変させた。
「ライバルはまだ夢の中だ。今ひとつでも多くの記憶を勝ち取れ!」講師は声高にホワイトボードを叩いた。

「今回の指標は何だったの?」記憶枠の数値が右肩上がりのチャート画面を職員達は眺める。
「いくつかありそうですね。ひとつは人気アイドル、北条ゆりの電撃結婚がネットにリークされました」
背後で職員の一人が悲鳴をあげる。
「うそだろ!ユリユリに限ってそんな…先週のライブでもファンの皆が恋人だよって言ってたじゃないか…」膝から崩れ落ちる彼を他の社員は冷淡の視線でやり過ごす。
「ファンにとっては忘れたい過去の記憶が量産された形になるのか。でもこれはここまでの急激な上昇の理由にはちょっと弱いな。他には?」
「あ!これだ。なるほど。これは相当数の記憶枠が放出されたことになるな。未明に世界一のクイズ王が亡くなったようです」

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