「序章」としての『ゲーム的リアリズムの誕生』の書評

 「動物化するポストモダン2」という副題にある通り、本著は前著「動物化するポストモダン」の続編である。「序章」で、東浩紀はそう記述している。ここで東がいう「序章」は、あくまで、前著のまとめ要約、前提知識の共有のためのものでもあり、本論の要約ではない。前著『動物化するポストモダン』はつまるところ、本著『ゲーム的リアリズムの誕生』の「序章」であったとも言える。

 その本論の構成は、第1章が「理論」、第2章が「作品論」となっている。さらに各章が3つに別れに別れており、第1章は社会学、文学Ⅰ、メディアに分けられており、第2章はキャラクター小説と美少女ゲーム、そして文学Ⅱとなっている。第2章のはじめに第1章は「キャラクター小説論論の性格が強」いとある通り、第1章は「自然主義的リアリズム」では分析できないライトノベルを「キャラクター小説」と呼ぶ大塚英志の論を引きつつ、大塚の「まんが・アニメ的リアリズム」を援用して分析する。そして、本書のタイトルである「ゲーム的リアリズム」論を「まんが・アニメ的リアリズム」に対置する形で提示している。そして、その展開にあたって、東は「物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解する」「環境分析」という手法を用いる。環境分析とは作品の外部にある「現実」ではなく、別の「環境」を呼び込むというものであり、この分析手法を第2章ではキャラクター小説と美少女ゲームと文学の具体的な作品群に対して行っていく。

 どこか通奏低音として本書に感じるのは、いかにして個人の自立を獲得するかという日本の戦後民主主義における問題だ。第1章理論でも繰り返し触れられる「虚構」は大澤真幸の『虚構の時代の果て』と繋がるし、A社会学でも触れられる「キャラクターの自律化」に読めるのはキャラクターを通して技術的に個人の獲得をしようとする大塚英志の方法だ。B文学Ⅰでは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』における「風景の発見」と「内面の発見」に対して、「現実」と「私」の発見を指摘している。そのそれぞれが第2章Aキャラクター小説における「死の表現」、B美少女ゲームの「視点のトリック」と呼応している。そして、C文学Ⅱに見え隠れするのは、大塚英志の技術的な個人の創作でなければ、さらには柄谷行人の内面の発見でもなく、宮台真司の精神的な個人の確立である。。C文学Ⅱの直前で引用される『ひぐらしのなく頃に』の最終ページの文章や、本書の終盤で清涼院流水『九十九十九』の最後の段落「だからとりあえず僕は今、この瞬間を永遠のものにしてみせる」や「よく見ろ! 目の前のものをよく見ろ!」には宮台真司的なエモさを感じる。だがしかし、そのエモさは『九十九十九』がそうであるように「終わり」が確定している点で、宮台真司的なエモさとは大きく異なるものである。

 本書評の冒頭で、前著『動物化するポストモダン』が本著の「序章」であると提示した。では、本著『ゲーム的リアリズムの誕生』もまた、東浩紀の次著の「序章」になったのだろうか。少なくともそうはなっているとは思えない。「これ以降の展開は、ふたたび読者の手に委ねたい」で締められている本書は、東浩紀が、ゼロ年代的批評と徐々に決別して行っている事を示している。2011年の東日本大震災による福島原発事故へのコミットによって、その決別はより顕著なものとなった。それゆえ、「動物化するポストモダン3」は執筆されない。しかし、その後の「福島観光地化計画」において、「現実」と「虚構」の間に、別の「環境」を呼び込もうとしているという点では、本書の環境分析的思考は福島原発事故へのコミットに受け継がれているのかもしれない。いや、その時のためにこそ、つまり歴史的な困難に立ち向かう時のためにこそ、この本著があったのだと東は考えているのではないだろうか。そういった意味でいえば、本書は単なるオタク論の域に止まらない東的な思考の軌跡と言える本である。

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