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人間の世界と虫鳥獣の世界

Photo by smap1104. Thanks. 
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あるメディアのかたとの話を通して、むかしは冷房病になりやすい体質だったのを思い出していた。

あのころはエアコンが自室にないことで真夏とその夜は尋常でない苦痛にもがいたものだった。扇風機を使っていた。

膨大無数のセミが狂気的に轟音でもあった。人間世界とは違うレベルの大なる異常さに恐れおののいたほど。

それほど大自然の暮らしは生易しいものでは決してなく、凄まじい。果樹園での作業のときにはとめどなく麦茶を飲んでいないと2時間ですら怪しい。

自然と言えば、食べ物は自然の恵みだ。人工といっても自然の過程を一部だけ借りているに過ぎない。

東北ではイノシシによるケガチ(飢饉・ききん)には残酷なものがあった。いきなり発生するから恐ろしい。イノシシが一夜にして作物を食い荒らす。江戸では三大飢饉が有名だ。

現代の東北の田畑には、電気柵が張られている。わたしが若いころはそんなものなかったから、異様な光景だ。それもまた、人口減少の時代に手間暇かかる。いずれ人間が柵のなかで暮らすのではとも言われる。

なぜかといえば、いわゆる里山という人間世界を、獣たちが侵食し始めたからだ。野生の世界へ戻そうとしているとも言える(ときに避難区域では顕著だった)。

なんでもナチュラルがいいと人工物が忌避されて久しい。しかしナチュラルという言葉の重みは本当のところ常軌を逸した世界なのである。

昆虫や野生動物に命を奪われる可能性のことだ。ちいさな虫、ちいさな鳥、それなりの獣……むかしからひとびとの想像の種であった。

九相図(くそうず)は有名だ。仏教の絵であり、ひとが死んでから朽ちていき虫や獣や鳥などに食われて消えていく様を9段階で描いている。

すなわち虫や動物たちというのは、人間の魂を運ぶ存在なのだ。魂の運搬者たち。わたしたちを担いでくれる。いまは火葬なので灰からの循環だが。

9段階を修行僧は具体的にイメージできるようになるまで集中観察するなどの修行があったように思う。そうして肉体への執着を捨てるという。

内容は、空の思想などが説かれている『大智度論(だいちどろん)』という仏教書に載っている。2~3世紀の龍樹(りゅうじゅ)(ナーガールジュナ)が書き、4~5世紀の鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳したと伝わる。

それほど執着を捨てるというのは簡単ではない。ふつうの人間には執着があって仕方がないのも自然かもしれない。強欲オバケにとりつかれないよう、人間は常に戒められている必要があるのだろう。

恐ろしさとは精神的な現象である。精神的なものには見えない世界への想像力が働いてくる。よってスピリチュアルな思考が出てきて、必死で神様仏様に祈りたくもなるというもの。

『ランゲルハンス島の午後』という村上春樹さんの本のなかで『夏の闇』という項目に概略こうあった。夏でも背筋が凍る場所があり、そこは「死人の道(しびとのみち)」だから近づいてはならないのだそう。

日本の夏には、終戦記念日という日があるから、そういうことも毎年あわせて思い出している。

いまではだいぶ体調が回復してきているわたしは、現代文明のエアコンに助けられている。ありがたいことだ。

さらに、現代の家屋という現代文明がないと虫だらけで暮らせたものではない。イザベラ・バードが泊った江戸時代の家のような家と、つげ義春の描くような家と、もはやどちらも厳しい。

人間は物理的に弱い生き物だ。それに人間は、いつまた戦争の過ちを繰り返したり不具合が起きたりするかもしれない不確実性を抱えた、精神的にも基礎的にも、やはり一介の弱い生物に過ぎない。

現代ではBMI(ブレイン・マシーン・インターフェイス)やHMI(ヒューマン・マシーン・インターフェイス)などといって要は、人間と機械を接続していくことがさらに発展してきてはいる。

『銀河鉄道999』に出てくる「機械の体」や「鉄腕アトム」などをひとびとは思い出していることだろう。こどものころ鉄腕アトムのファミコンはよくやったものだった……、富岡トムトムで買い物したり。

3・11後に生きるわたしたちは、それが当たり前になりすぎて、3・11前とは違う世界にいることすら、もう忘れだしているぐらいの時代じゃないかと最近わたしは感じている。

なにかと生きるのが大変だというのもあるだろう。ひとまずこの、むし、とり、けもの、つち、そら、かわ、うみ、かぜ、たいよう、あめ、くも、……大自然へ畏怖の心などを失わないよう、慎ましく居たい。

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