こころへの伝え方

これは人や状況により色々な方向へ分かれていくものだからあえてどれが正しいとか正解とかいうことはできない。

しかし私の場合かなりの精神的な強い影響を被るような表現やアピールの仕方などそういうものについては受信する側の心身の万全や医療体制の万全が備わっていない時、 責任の所在が難しいと思うのである。

またそのようなトラウマ的な内容を人が受け取った後、ではそれを何度も反芻してさらに未来へつなげていくことが、人類にはどのぐらい可能であり、どのくらい人間はそれをしたいと希望できるのであろうか。

それについて少し過去の自分に置き換えて考えてみると、そういう方向へは全く行きたいと思えなかったので、そういう方向への表現を私は好まないでいる。偶然意外、旅先で自ら見にも行かない。

戦争や原発事故の表現もそう。戦争へ行った兵士たちがその後メンタルの件で多数が大変なように、ひとはそんなに丈夫に出来ていないと思うのである。表現していけないということではなく。

戦後から昨今また震災の件でも流行りの『美化させない』は、重要な点ではあるものの、ならば残酷だけが真実かといえば、そうでもないのである。残酷というなら毎日残酷な事件が起きている。

なにかにいきどおり憎らしければ、キャンバスに攻撃したりぶつけたりすれば良いのか。見る者のこころに被害者と同質的なトラウマを負わせれば正しいのか。わたしたちには、感情よりも理性を重んじるべきシーンがあるとわたしは信じる、ひとには心があるから。

※参考
このニュース記事は表現に関しては居ないが、受け手の多様性という意味では、似ている論点があろう。そこで、アート表現などに、ショックのきつすぎるものをわたしが好まないのは、こういうことが理由である。人工知能との会話で自死したひとのニュース。
引用『2年ほど前から気候変動などの環境問題について深刻に悩むようになっていたといいます。』
題『生成AIと会話を続けた夫は帰らぬ人に…』2023年7月28日 18時32分 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230728/k10014145661000.html

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