勉強を”勉強”と認識するからいけない

私は、勉強を”勉強”と認識せずして勉強することが理想だと思う。

「はい、今から”勉強”をします」
と言って勉強を始めれば、大抵の人はげんなりしないだろうか?

「はい、今からあなたの知的好奇心を満たします」
と言って勉強を始めれば、人はそれを”勉強”と思うだろうか?

私はつい先ほどまで、シュレディンガーの猫を理解するために量子力学について調べていた。
そうして気づいたのが、かつて学校で学んだことを今なぞっているということだ。

過去、学校で量子力学を学んでいたことと、現在、好奇心の赴くまま量子力学を調べていること。
客観的に見れば、どちらも『”勉強”をしている』以外の何物でもない。

だが主観的にはどうだ?
もちろん、私の内心は大きく違っていた。
まず、好奇心から調べている私に『”勉強”をしている』という認識は一切なかったと言っておこう。

前者と後者の違いをわかりやすく挙げると、
①量子力学への興味の有無
②能動的に学んでいるか、受動的に学んでいるか
そして先ほど述べた、

③”勉強”をしているという自覚があるか否か

主にこの3つだ。

これらの違いがどう影響するかというと、

①は、情報の吸収力。頭に入れた情報をどれだけ留めていられるか
②は、応用を考えられるか
③は、”勉強”への義務感が発生するか

だろう。

冒頭に戻り、勉強を”勉強”と認識せずして勉強することが理想と思うのは、

かつて学校で③により、”勉強”への義務感を刷り込まれてしまったが故に、私は”勉強”ができないからだ。

私は今、学ぶ立場であると同時に、教える立場になる可能性を持っている。

自分のように、”勉強”に対する苦手意識を消せない人というのは、少なからずいるのではないだろうか。

最近流行りの働き方改革ももちろん大切だが、学び方改革にも、もっと焦点を当ててほしいと思う、今日この頃。


こんにちは、初めまして。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
日々思ったことを綴っていくつもりの雑記ブログ、始めます。


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