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ショートショート【夏だから】

「今週末は海へ行こう、夏だからね」父さんが言った。
 見渡す限り田んぼが広がるような土地で生まれ育った私にとって、海に行くことは一大イベントだった。大人になってから考えると、実家から海まではそう遠くなく、車を三十分も走らせればたどり着いたはずだが、当時小学校に上がる直前の私にはその距離がたいそう果てしなかった。
 それは七月の終わりごろ、確か夏休みに入る前の最後の週末だったかと思う。私たち家族はみんなで車に乗って海へ出かけた。
 小さな農家である両親は春から秋にかけていつでも忙しく、子供たちが夏休みだからといってどこかに遊びに行くことはほとんどなかった。そのため、あの夏に家族で海に出かけたことはよく覚えている。中学校入学を控えて少し大人びた長女と、年が近くいつも喧嘩ばかりしていた次女。この日も私は道中に次女と喧嘩をしていた。それでもいつも私が折れてあげる。年が下でも私は長男だからね。
 いつの間にか寝ていたようだった。父さんに起こされたときには目の前に海が広がっていた。シーズン前の海は空いていた。それでなくても人の少ないさびれた海水浴場だ。私たちのほかには仲良く海を眺めているカップルしか見当たらなかった。海の家というものも営業していたように思うが、田舎の貧乏な農家では家族みんなで外食は難しい。うちでとれたコメと夏野菜のおにぎりを口いっぱいにほおばった。帰りの車は母さんが運転をしていたから、父さんはビールでも飲んだのだろう。とにかく一日中遊んで、帰ったらそのまま眠りについてしまった記憶がある。

「今週末は山へ行こう」お母さんが言った。「夏だからね」私が答える。
 もう九月になってしまった。それでも温暖化の影響か、まだまだ暑い毎日が続いている。まだ、もう少し、夏でよさそうだ。夏休みは終わってしまったが、夏の気持ちを引きずりながら週末の準備をした。
 家族で山に行くのは初めてだ。必要なものはチェックリストを作って不足がないか何度も確認をした。まだ六歳の幼い体に夏の山は厳しいだろう。できるだけつらい思いはさせたくない。
 私は少しつらい思いをしすぎたようだ。仕方がない、長男だから。そう言い聞かせてきたがどうにもこうにも生活が上に向かない。親に少しでも楽をさせたい一心で地元の有名企業に就職したが、不況の影響で昨年リストラにあった。それとほぼ同じ時期に父が死んだ。まだ七十歳になったばかりの突然の死だった。いまは夫を亡くしてみるみるうちに元気がなくなった母の介護をする毎日だ。

 だからこそ、私は息子にはつらい思いをさせたくない。

 山に着き、後部座席を確認すると、息子はすっかり眠っていた。お母さんと顔を見合わせる。お母さんは少し微笑みながら私に向かってうなずいた。私たちは息子を起こさず、眠りについた。
 息子にとって最初で最後の山登りが果たされることなく終わる。

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