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ショートショート【彼女の話】

「先にお飲み物お伺いしましょうか?」
 席に着くなり店員が声をかけてくる。
「あー。ええっと……」
 返事ともならない返事を返す。予想外の残業で疲れ切っていた私は、すぐに注文を決めることができなかった。そもそも居酒屋お決まりのこのセリフが私はあまり得意ではない。特に決まって好きなお酒もないし、居酒屋ごとにメニューが違うのだから最初の一杯からゆっくり選ばせてほしいと思ってしまう。
 しばらくメニューを眺めている私を確認した店員は「お決まりになりましたらお呼びください」との言葉を残して席を後にした。早くドリンクを選ばなければというプレッシャーから解放され、チラリと隣の席へ目をやる。彼女の生ビールはジョッキに半分くらい残っている。「やっぱり一杯目はビールがいいかも知れない」などと考えていると、彼女が話し始める。

「ねえ、聞いて。今日仕事でさ」こんな話の始め方では内容はあらかた愚痴だろう。
「うん、うん」男は相槌を打ちながら話を聞く。
「いつも話してる曽根さんっているでしょう。嫌味ばっかり言ってくる上司の。あの人がまたね、私が書類を提出したときにね。あら、ありがとう。それで、この書類作りが終わってからは何をしていたの?  って。あれ絶対に私の仕事が遅いって言いたいのよ、本当に嫌な人。」
 ほら、思った通り。お酒を飲みながらする仕事の話なんて十割が愚痴だ。男は肯定とも取れないほどの静かな相槌を打つ。
「あ、あとね。ふふっ。」彼女は続ける。「後輩のタマがね、なんでか分からないけど曽根さんのことを主様って呼ぶのよ。私のことは姉御って。愛嬌のある子だから誰もそれを注意はしてなかったんだけど。今日、取引先との電話の時に、ふふっ、相手のお偉いさんのことを「主様」って呼んじゃって。向こうも怒ってはいなかったからよかったものの、必死で謝ってるタマをみながら笑いをこらえるので大変だったんだから!」
 彼女がクスクスと笑う。それにつられて思わず私もくすっと笑ってしまった。すると隣のカップルは少し怪訝そうな顔でこちらを見てきた。

 ああ、いけない、とテーブルに目を落とす。席について五分以上経つが、私のテーブルにはまだ先ほど渡されたおしぼりが置いてあるだけだった。居酒屋で飲み物も頼まずに一人で笑っていては不審に思われても仕方がない。
 なにか頼まなければ、と私が再びメニューを手に取ると、待ってましたとばかりに先ほどの店員が近づいてくる。この後に続く言葉も私はあまり好まない。のんびりさせてくれ、と十分すぎるほどのんびりしたことを自覚しつつも思ってしまう。
 店員が目の前まで来てしまった。もう一度隣の席へ目をやると、彼女のビールはほとんどなくなっていた。いいか、とりあえずビールで。そう考えている所に店員が尋ねる。
 
「ご注文はいかがなさいますか?」


※1147字

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