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【アドラー心理学】課題の分離とはなんだろう

アドラーって名前は知っているけれど、内容はよく知らなかった。
ソクラテスとどう違うのか。
実生活ではどのように活きてくるのか。

今回は有名な書籍「嫌われる勇気」を読みながら自分で考えたことを簡単にまとめてみた。

"嫌われる"勇気って?

まず印象的なのはタイトルだろう。

タイトルの真意は読む中で理解できる。
超ざっくり言うと、「人からどう思われているかとかそういう他人の目線は気にせず、自分のいま生きている瞬間を懸命に生きましょう」みたいな感じ。

この本はアドラー心理学をめぐって、青年と哲学者が対話をしていく形式をとっている。
よって、アドラー心理学の理解を深めるにもってこいなのだ。

SNSなんかでもちょくちょく見かけることが多くなり、日本人にも身近なアドラー。
ただ、その中身について、わたしは全くの無知だった。

課題の分離という考え方

本の中に、「子どもが勉強をしないとき、親が代わりにやっても意味がない。なぜなら勉強するという【課題】は子どもの課題だからだ。」という話があった。子どもの代わりに親が勉強することはないと思うが、親が子どもに「勉強しなさい」と言うことはよくあることだろう。
しかし本によれば、「親が子どもの【課題】に踏み込む、つまり勉強をやらせようとする行為は、子どもの【課題】に踏み込んでいることになる」と説明がある。

この例を別のシーンに応用してみる。
例えば会社で「こんなことをしたら(言ったら)相手にどう思われるのだろうか。」と悩む場面(往々にしてある!)だとどうなるか。
相手がどう思うか、というのは相手(他者)の【課題】であり、相手がどう思うかを考えることは、他者の【課題】に踏み込むことだ。となるのだ。

本の中で、哲学者が青年に対し、
課題の分離をしたら、他者の課題には踏み込まないようにしなさい。
と話している。

確かに、仮に相手が怒ったとて、その怒りをなんとかするのは相手であって自分ではない

身近な例に落とし込んでみる

これを書いていて思い出したんだけど、前の職場の上司で
「僕は怒っています」といちいち言いにくる人がいて、あのときは忙しすぎたのもあって「そうですか」とスルーしていたのだが、ある意味正解だったのかもしれない。

忙殺されていたわたしのように無意識レベルでできればいいけれど、なかなかそうもいかない。
ただ、これは誰の課題なのか?自分か?他者か?と考えるだけでもだいぶ冷静になれると思った。

感情や行動に目的があるというアドラー。

ソクラテスは、過去の出来事がいまの自分に影響していて、その【結果】として感情、行動が現れている、と考えた。
一方で、アドラーというのは過去は関係なく、なんらかの【目的】があって感情、行動が現れていると考える。

例えば。
さっきのやばめ上司を例に使うと、
よく大声で周りに聞こえるようになめてんのか」などと言っていた。

ソクラテス的な考えでいくと、
「なめてんのか」と言いたくなるような出来事が彼の身に起こった、その結果として大声で文句を言っているのだろう。
となる。

一方、アドラー的な考えでいくと、
なにがあったかは関係なく、彼はなんらかの目的(周りに自分が不機嫌であることを知らしめたい、今は話しかけないでほしい、あるいは、大丈夫ですかと言われたい、etc.)があって大声で「なめてんのか」と言った
となる。

比べてみると面白い。
(わたしが上司があんまりスキじゃないからかもだけど)完全にアドラーの説に賛成したくなってくる。

自分をふりかえる

少し前、パートナーに八つ当たりしたり、不機嫌な感じになったりしていたのは、たしかに目的ありきだったかも、と反省した。
本を読んでからは、自分はいま、なにを目的としようとしているんだろう、目的を達成するには他の手段はないかな、と冷静に考えられるようになった。

「嫌われる勇気」はもっといっぱいアドラーの考え方を書いているし、最後には「共同体感覚」というアドラーの心理学でなかなか理解が難しいとされる考え方も登場する。
また、実践に際して、ということで続編「幸せになる勇気」という本もある。

「幸せになる勇気」を読んでさらに理解を深めようと思う。

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