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一夜限りの関係

 私の部屋のロフトには小窓がついている。ちょうど顔だけ出せるほどの小さな窓から、静かな夜更けに外を眺めるのが最近のマイブームである。アパートの前の通りはひっそりとしながらも、連なった灯りがぼんやりと輝いて非常にエモい。ギターを取り出し『ガラスのブルース』でも歌いたい。少し残念なのはギターなんて持ってないし、触ったこともないことだ。

 この日は日付が変わる時間まで雨が降っていたので外のアスファルトが濡れていた。濡れたアスファルトのあの匂いは私にとっては好きな匂いだ。気持ちいい。今夜は『K』でも弾き語りしようかな。ギターねえけど。そんなことを考えながらふと窓から顔を出すと、10メートルくらい先に茶色いクッションが落ちていた。

  クッション?
  あ、ちがう猫だ。三毛猫だ。
  あ、こっち向いた。

  ああ、かわいい。

 その瞬間爽やかな夜風が吹き、私の頭の中には『Love so sweet』が流れた。なんだ?恋でも始めるのか?バカいえ相手は猫だぞ。こんなことで俺の心は踊らないさ。一瞬のときめきから平静を取り戻すと、猫はもうそこにはいなかった。あれ、どこいっちゃったの?猫の姿を探すと、なんと窓の真下にある私の部屋のドアの前に寝転んでいたのだ。

 完全なる誘惑である。どんな痴女でもこんな堂々とした誘惑はしないだろう。家の前に寝そべるなんて。不埒なやつだ。叱ってやる。ロフトから降りてドアを開けると、彼女の方から話しかけてきた。

   「にゃーーん」 


 !!!!!かわいい!!!!!


 やられた。恋に落ちた。こんなにもあっさりと。ぱっちりおめめ。丸顔。美しい毛並みにすらっと伸びた手足。猫のことはぜんぜん詳しくないが、毛並みの良さから推測するに飼い猫である。そんなことはいまはどうでもいい。この娘は美女である、絶対に。もはや長澤まさみだ。今日のこの出会いは運命である、この娘は俺が幸せにしてやる。そんなことすら思った。恐る恐る手を伸ばすと、彼女は嫌がる様子は一切見せず、私を受け入れてくれた。頭も身体もしっぽもふわふわである。うわあ。これはすごい!そうだ!なにかあげよう!

 急いで冷蔵庫を開けると、母から米と一緒に送られてきた大量の魚肉ソーセージがあった。処理にも困っていたので丁度いいと思い一本手にとって冷蔵庫を激しく閉めた。小さくちぎって渡すと彼女はくんくんとソーセージの匂いを嗅いだ。しかし嗅いだまま手はつけず、顔をあけで私にこう伝える。 

 「こんなものが目的じゃないの。」(にゃーん)

 そうか。この娘は食べ物ではなく、この "私" を求めているのだ。うかつだった。彼女の気持ちに気付けなかった。男として情けない限りである。

  よし! まさみ(仮)! 
  俺と一緒に旅に出よう!
  ふたりだけの! 熱い夜を!

 そう思い上がり歩きだすと、なんと彼女はついてきた。ええすごい!猫ってこんな馴れ馴れしいの?驚きはしたものの、これ以上まさみ(仮)に不慣れな姿を見せるわけにはいかない。ポケットに手を入れながら振り返らずに歩く。たまーに振り返るとやっぱりついてきている。そして私の横を歩くようになった。まさに私とまさみ(仮)はパートナーとなった。心が通じあった。もう結婚したようなもんだろ。
 
 同伴者のいる幸せを存分に感じながら30分ほど近所の路地を歩く。道中私が先を行くことも、まさみ(仮)が先を行くこともあった。どちらの道をゆくかで口論にもなった。お互いがふたりの幸せについて深く考えているからこその衝突である。私が折れることも、まさみ(仮)が折れることもあった。結婚生活は妥協が肝心。誰かがそんなことを言っていたのを思い出した。

 道に迷うこともあった。来たこともない路地に入ってしまった。長い旅の中では自分達の現在地がわからなくなることはよくある。そんなとき重要なのは、もと来た道に戻ることである。人生はやりなおすことができるし、暗闇に囲まれても希望を捨ててはならない。ふたりの長い旅路は途切れることはないのだ。

 時計の針は2時半を回り、翌朝一限から授業のある私は、ひとまず今夜の旅を終えることにした。ふたりの出会いの場であるアパート前に戻り、名残惜しくも別れを告げた。

   「またすぐに会えるよね?」(にゃーん)

   ああ! 会えるとも! しばしの別れだ!
   なあに! 明日にでも会える!

 私がそういうと彼女は微笑み、去っていった。私はしばらく眠れず、翌日の授業もほとんど手がつかなかった。日付が変わり心をときめかせながら小窓を開けると、また10メートルほど先にまさみ(仮)はいた。

   まさみ(仮)!

 そう声をかけようとした途端、隣のアパートの2階から40代ほどの小太りオヤジがでてきた。階段を降り、まさみ(仮)の身体を撫で回している。なんだあいつは!よくも俺のまさみ(仮)を!慌ててロフトのハシゴを降りドアを開けると、まさみ(仮)は既にそのオヤジと歩きだしていた。

  私はすべてを悟った。

 まさみ(仮)にとって、私は一夜限りの関係の相手だったのだ。散歩フレンド。サフレだったのだ。私はこんなにも心を燃え上がらせ、まさみ(仮)との将来を真剣に考えていたのに。私は立ち尽くし、湧き上がるこの猛烈な虚無感にどうすることもできなくなった。彼女は私をあっさりと裏切った。見方を変えれば私が簡単に騙されすぎてしまった。まさみ(仮)への怒りと自分への怒りが混ざり合い、また眠れなくなってしまった。

 女とはかくも心情を読めない生き物である。対して男という生き物はかくも騙されやすい性質をもつ。世の中はこうして男女が複雑に絡み合いながら進んでいるのだと思い知った。俺ももうハタチだ。もっと経験を積もう。しばらく物思いにふけながら魚肉ソーセージを食べていると、いつのまにか空は明るくなりはじめていた。

 ちなみにあの猫がメスなのかは知らない。


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