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忘れかけていた死の事

先日レガシーワールドという馬が亡くなった。死因は老衰。

レガシーワールド(以降レガシー)という馬は「名前はどこかで聞いたことがある」ぐらいの馬だった。好きな馬が走っているレースを見ている時に「レガシーも来ている!内からレガシーワールド!」と直線でアナウンサーが叫んだところも含め、名前が耳に残っている。

正直に言えば、そこまでレガシーを推しているわけじゃなかった。もちろん実際にレガシーが走っている姿をテレビで見たこともないし、人気ゲームウマ娘の影響で再び脚光を浴びているライスシャワー、ウイニングチケット、メジロパーマーといった馬達がいたため、G1を勝つことが難しかった。

レガシーが亡くなって何日も経つが、僕は未だにレガシーのことを忘れられない。

冒頭でも書いた通り死因は老衰。それだけなら病気や放牧中のアクシデントなど、外的な要因によって引き起こされるような事象ではないため、死に対しての心理的なダメージは多少軽いかもしれない。

だけどレガシーのことが何故か頭に残っている。その理由としては死因の背景だった。

レガシーが亡くなる前日まではカイバも綺麗に食べたり、放牧時は速歩で走ったりと何一つ問題は無かった。また、その日はファンから届いたジャパンカップを制した時に着ていたゼッケンを着せてあげたらしい。ところが、朝レガシーがいる厩舎へ向かうと眠ったまま亡くなっていた。ネットでは「ゼッケンをつけてあげたことで満足してしまったのではないか。」という解釈もあった。

そんな生き物の生と死を僕はこの数日考えるようになった。馬は喋らないし、喜んでいるのか怒っているのかも理解できそうで理解できない。すべて人間の一方的な解釈に過ぎないのだが、なぜか心にポッカリと穴が空いた感覚になってしまう。

よく死んでいる動物に「可哀そう」と口に出したりすると、自分を救ってくれると思い、霊がついてきたり、死期が近い人が何らかの満足や死を認めたりすると、お迎えが現実になってしまうといった例をよく耳にするが、僕はそんなスピリチュアルなことを信じているようで信じていない。ある意味ケース・バイ・ケース。

だけど、今回のレガシーの一連の出来事で、本当にそういったことがあるかもしれないと考えてしまう。それはこの世に生きるすべての生き物に当てはまる。

僕には90を超えた祖母と祖父がいる。二人とも耳は遠くなり、言葉や物事の理解も衰えているが、2人とも介護施設に入所することもなく自分の足で歩いているうえ、いまのところ生活に支障はでていない。

だけど、生物はいつか死ぬ。

それは明日かもしれないし明後日かもしれない。

そんな暗いことをレガシーが死んでしまった以降よく考えている自分がいる。

もし僕が祖父に「久しぶりにキャッチボールしよ」と言ったら祖父はどう思うのだろうか。小学生以来やっていないキャッチボール。祖父は片腕だけ真上にあげられない。だからこそ下投げでのキャッチボール。

そんな雑なサプライズ的なことをした次の日の朝は、いつも通り祖父は眠そうな顔で起きてくるのだろうか。

人はいつか死ぬ。

馬も猫も犬も魚も鳥も地球上に生きる生命はいつか死ぬ。

だけど死ぬ瞬間は予想もつかない。

そんな忘れかけていたことをレガシーワールドという馬が教えてくれた気がした。

そうやってレガシーが亡くなった記事を読みながら、僕はひとり暗い部屋で涙を流していた。


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