朝比奈秋という人間の生き様
物語は、極寒のウクライナの地で、プラスチック爆弾を身体に仕込む女性の描写から始まる。
朝比奈秋氏の小説、『あなたの燃える左手で』。
私がこの本に興味を引かれたのは、この物語が「分断」や「境界」を扱っていたからだ。
当時、脳科学者であるジル・ボルト・テイラー博士の"TED"のプレゼンテーションを拝見し、私は非常に感銘を受けていた。
左脳の脳卒中で、認知機能・身体機能を失ったテイラー博士の、右脳のみで体感した世界が、なんとも不可思議であった。
これまで多くの人が感覚的には捉えているものの実体験を伴わず、論理的に言語化出来ないことを、脳卒中を生き抜いた脳科学者の立場から見事に言語化してみせた、人類にとって非常に貴重なプレゼンテーションであった。
テイラー氏が語った出来事から、私は、人と人との境界、自分と世界との身体的・心理的な境界について、興味を抱いていた。
『あなたの燃える左手で』。この本の帯にこう書かれてあった。
私がこの本を手に取ったのは必然であったように思う。
しばらく小説からは遠ざかっていた。
日々の子育ての中で、じっくりと一つの物語と向き合う時間が取れなかったためかもしれない。
読み進めるうちにどんどん物語の世界に引き込まれ、時に苦しく、最後は涙を流しながら読み終えた。
島国育ちである私は、自国の領土が奪われる経験はなく、その経験がどのような感情をもたらすのかということも、ピンとこない。
大切な故郷の地が強制的に奪われるというのは、自分の身体の一部を奪われるに等しく、故郷、そして大切な人を奪われる悲しみは、やがてその人の身心を蝕んでいく……。
肉体の切断と結合。故郷を奪われ、喪うこと。
それらの出来事が一つの世界の中で混ざり合い、私たちに様々な感情を突き付ける。
私は日本人で、身体の一部を失ったこともないが、作中のウクライナ人女性・ハンナの感情の描写に馴染みのあるものがあった。
ハンナはその腹に赤黒い熱い塊を抱えている。
赤黒いマグマがぐつぐつと腹の中で煮えたぎっている。
それは身を焼くような怒りであった。
故郷と大切な人を奪われて以降現れたハンナのそれは、”怒り”と一言で明解に表せるものではないかも知れない。
だがハンナの腹にあるものに、私は馴染みがあった。
それはかつて私の腹の中にも確かにあった。
故郷も、身体も奪われていない私のそれはどこから来るものなのか。
今ならはっきりとわかる。
私は自分の感情を奪われていた。
機能不全家族に育った私の感情は、奪われて当然のものであった。
感情などあってはならないものであった。
私の腹の中にも、赤黒いマグマが静かに燃えていた。
故郷を奪われることも、大切な人を奪われることも、
身体の一部を奪われることも、感情を奪われることも、
自分自身を失うことに、変わりはないのかもしれない。
それは時に混乱と絶望を招く。
それでも生きて行く人間の命そのものを、この物語は紡いでいる。
この小説を読み終え、私は朝比奈秋という人間が気になった。
調べているうちに、彼の過去のインタビューに出会った。
朝比奈氏はこの小説を書いた時、現役の消化器内科の医師であった。
5年程前、論文執筆中にふと思いつき、原稿用紙400枚分の小説を書いた。
創作の衝動が収まらず、勤務医をやめてフリーランスの非常勤に。
30作を超えても物語を思いつくことを止められず、差し支えが出て病院をやめざるを得なくなったという。本人は仕事はやめたくなかったと語っている。
朝比奈氏は医師として働きながら、魂の声に逆らえなくなったのだ。
その声に逆らわず、受け入れた。その声は医師として生きるという自身の意思とは違うものであった。
だが彼の小説を読めば、医師としての知識と経験が、彼が生み出す物語にとって欠かせないものであることは明白だ。
人生において無駄なことなど無い。魂から湧き上がる想いに抗わず、受け入れた時、すべての辻褄が合っていく。
魂の声に抗わず、その想いのままに自分を信じ、生きる。
朝比奈秋とはそういう人であるように思う。
全てを受け入れ、全てを手放す。生も死も。
私は朝比奈秋という人間の生き様に惹かれたのかも知れない。
魂の声に抗わずに生きる人が紡ぐ物語の人物たちもまた、魂の声に従い生きる。
そこには善も悪も存在し得ない。
たとえそれが悲劇であろうとも、その人物が生きた魂の痕跡は、私たちの胸に刻まれ消えることはない。
昨夜、第171回芥川賞・直木賞の受賞作が発表となった。
芥川賞に朝比奈秋さん『サンショウウオの四十九日』、
松永K三蔵さん『バリ山行』、
直木賞に一穂ミチさん『ツミデミック』が選ばれた。
受賞おめでとうございます!
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