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私たちが求めているもの

先日、YouTubeであるショート動画を見ました。

数か月前に愛犬を亡くした男性に、彼の家族がサプライズで子犬をプレゼントする動画です。

癒しを求めて可愛い動物の動画を見まくっていた時に、この動画に辿り着きました。
これを見た途端、私は涙が止まらなくなりました。
ほんの数十秒のショート動画を、何度も見ましたが、
その間中、涙が止まらないのです。

ひとしきり泣いた後、私はこの涙の意味を考えていました。


男性は子犬を抱き締めた瞬間から、涙を浮かべているように見えます。
その表情は愛しさに溢れています。
子犬は、男性にもたれかかり、静かに抱き締められて動こうとしません。
まるで男性の求めているものをわかっていて、
それに全身で応えているかのようです。

初めて出会ったはずなのに、
その光景はまるで、
何度も生まれ変わってようやく再開を果たしたかのような、
深い深い絆で結ばれている二人に見えます。


なぜ、この短い動画に心を揺さぶられるのか。

私は、これは私が求めているものだと気づきました。

そこにあるのは、無条件で、あなたに逢えたことが心から嬉しいという、
愛そのものです。

そこには、
一切の理屈も説明も必要ありません。

ただただ、その存在が愛おしい。

あなたに会えて嬉しい。

それしかありません。


この無条件の愛こそ、
私がずっと求めていたもので、
そして私だけではなく、
皆が求めているものなのだと思いました。

この動画は9ヵ月前に公開されたもので、
現在1530万回再生され、97万もの高評価を得ています。

私たちは無条件の愛を、
この男性と子犬の姿に見るのです。

本来、愛とはこれで良いのです。

とてもシンプルなものです。

私たちが複雑にしているだけなのです。


私は機能不全家族育ちなので、
このようなシンプルな愛を知りません。
家庭の中に安らげる居場所は無く、
私は外にそれを求めました。

10代後半から20代は、恋愛に依存をしていました。
いくら他人にそれを求めたところで、
私の基になっているものは母親との共依存体質の歪んだ愛情なので、同じように、歪んだ愛情を持つ人と引き合うのです。
私は数年間、恋人による暴力を受けていました。
今なら、殴られたら秒で殴り返しますが、昔はそれができませんでした。
身体的な暴力に加え、人格を否定される言葉を朝まで浴びせられましたが、私はそれらをすべて受け入れていました。
自分を大切にできないからです。
お前はゴミだと言われても、その通りだとしか思えませんでした。

『私はそのように扱われるべき人間である』
と強く思い込んでいたので、身体的な暴力にも言葉による暴力にも、
「そうじゃない」
と言えないのです。
それらの暴力を否定する根拠が自分の中に無いのです。

何年にも及ぶ暴力の果てに、
ある日ふと、
「私はこのままだと死んでしまう」
と思いました。
私は生きたかったのです。
最後は軟禁状態だった部屋から逃げ出してきました。

恋愛でボロボロになった私は、今度は仕事に依存しました。
恋愛依存と同じように、自分の時間も感情も休息も睡眠も食事もほぼ無視をして、仕事にすべてのエネルギーを注ぎました。
その結果、評価や称賛を得ました。
私は少し満足しましたが、それは長くは続きませんでした。
気付けばやはり、心身はボロボロでした。




何をやっているんだろう
と思いました。

子供の頃欲しかったものが
家にはなくて
人にもなくて
社会にもなくて

もうダメなのかもしれない、
と思いました。
もう本当に生きる場所なんてないのかもしれない、
と考えていました。

そうなって初めて、
私は自分の内側に目を向けました。

自分を深く見つめて、
自分について知り、
失っていた自分を探しました。

私はようやく気付き始めています。
欲しかったものが、
私の中にあったことを。
私はただそれを、
忘れていただけだということを。


自分を本当に愛することができるのは、
自分であると思います。
ある人にとってそれはごく当たり前のことかも知れませんが、
私は長い間それがわかりませんでした。
いえ、忘れていました。

人は皆愛を知っているのだと思います。
そうでなければ、愛の無い言葉や行為に傷付いたり、愛を渇望したりはしません。まったく知らないものを求めることはできません。

どのような親であっても、またどのような環境であっても、
赤ちゃんの頃に抱き上げられたことの無い人はいません。
生まれ、抱き上げられ、ごはんをもらい、生きてきました。

ですが成長の過程で、様々な理由で、歪んでしまうのです。
大事な大事な、愛すべき自分を、
手放してしまうのです。


だけどそれに気付いたら、
手放してきたのもを一つ一つ拾い集めて、
自分を取り戻すことは可能です。

本来、愛とはとてもシンプルなものです。

学校に行けなくても、勉強ができなくても、みんなと同じにできなくても、
お金がなくても、太っていても痩せていても、なんにも持っていなくても、
褒められなくても、ひとりでも、
あなたの価値は変わりません。

生まれたそのままで十分なのです。

あなたは十分なのです。

価値を付けようとせずとも、
価値は生まれてからずっと変わらずそこにあるのです。


私たちはそれを忘れてしまいます。
そして苦しみ、迷います。
ですが本当は知っているのです。
あの男性と子犬の動画のように、美しい愛そのものに触れた時、
思い出し、
それが涙となって流れるのではないか。

とても長くなりましたが、以上が私が流した涙についての考察です。


お付き合いいただき、ありがとうございました。





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