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川底とネクタイ

 川底に寝転がって空を眺めていたい。
何もかもを放り出して、何もかもを投げ出して、ただ横たわっていたい。
何も残っていない僕に、何か出来る筈もなく、それでいて尚、呼吸をやめないまま歪んで揺蕩う空を眺めているのだ。
この上なく幸せな時間だった。

 幸せな時間は、長くは続かないものだ。
あっという間に叩き起こされて、スーツを着て、タイを締めて出掛けていくしかなかった。それに抗うことも出来なかった。
そうしてまた、傷付いてボロボロになって、そのうちに川底に横たわる。
幾度となくそれを繰り返しているのだ。

 滲む世界と揺蕩う空、曇る音と流れる時間。
それだけあれば、僕の世界は完成しているのだ。
煩い音もなければ、醜い景色もなく、ただ流れに合わせて揺れているだけでよかったのに。いつまでもそうはさせてくれない世界が間違っている、とすら思っているのだ。だけど、抗うこともなく、こうして傷だらけになって横たわっているのだ。何とも情けない有り様だ。

 それでも、居場所があるだけ幸せなのかもしれない。
こうして、横たわることが出来るだけ僕は、幸せなのだと思う。
ずっと頑張っている人もいるし、辛い中をずっと彷徨う人もいた。
そんな人たちを見ていると、手を差し伸べてあげたくもなるが、きっと声すらも届かないのだろう。川底に横たわることを悪とすら思うだろう。
伸ばしかけた手を引っ込めて、僕はひとり、川底へ向かっていく。

 よく頑張ったね。そんな言葉を聞くことも少なくなった。
いつしか、頑張ることは当たり前なことで、成果がなければ頑張る価値もなくなる、そんな世界になってしまったように感じている。
だけど、本当はそうじゃないんだ。
どんなに小さなことでも、頑張った人に向けられるべき言葉なんだ。
よく頑張ったね、頑張って偉いね、そんな言葉に救われる心がどれほどあるのかを考えてみて欲しい。僕のような人で溢れている世界だからこそ、必要な言葉なのだと僕は思うのです。

 正か誤か、そんなことはどうだっていい。
頑張っているから、それって凄く大変なことで偉いから、褒めて、認めることに正しいかどうかなど関係がないのだ。

――よく頑張ったね、頑張って偉いね。

それだけでいい。


                        可惜 夜-Atarai Yoru-


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