【小説】吾輩は猫だった(5)
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房之助を先生と呼ぶ人がいる。中学校の教員である。主人は先生から先生と呼ばれている。と云う事は、主人は余程の人物か? と問われれば、断じて全くそうではない。酒を飲んでもいないのに、お日様の高いうちから堂々にオツベの講釈を垂れる様な(五十間近の)男である。大した男の筈がない。
房之介を先生と呼ぶこの先生は、三十路に入ったばかりで数学を担当しているらしい。蟹江道文(カニエミチフミ)と云う名前だそうだが、主人から『イカ君』と呼ばれている。
彼は中学生の頃から、うちの『イフサ・スタジオ』に出入りしている。因みにこの『イフサ』と云うのは、主人の名前『伊馬把房之介』の姓と名の一文字ずつを繋げて『伊房(イフサ)』と決めたのだと考える。
蟹江と云う苗字の彼が、何故イカ君か? その由縁も全く馬鹿馬鹿しい。彼の顔の形が野球のホームベース型をしていると云う事で、まるで烏賊みたいだと……。そして、それを踏まえてもう一つ、名前の道文(ミチフミ)を音読みして『ドウブン』とした処から、「おっ、『烏賊ドウブン』、『以下同文』、こいつぁいいや!」となったと云う話である。これも、その時スタジオ内に居た『ヤモリの守太』から聞いた。その時も房之介は酔っていなかったと云う……。
「先生、今晩空いてないですか?」
「ん? スタジオかい?」
「いえ、体が、です。たまには飲みにでも行かないですか?」
「おっ、どしたんぞね? なんか湿気た面しとるぞね?」
「そうですか? 湿気た面してますかねぇ?」
「うん、もしかして悩みでもあるん?」
「えぇ、まぁ……」
「ほんなら、九時でどんな?」
「はい。有難う御座います。で、場所は?」
「ほうじゃねぇ、チャーリーでどう?」
「バー・チャーリーですか?」
おっと、これは蚤の紋太の出番だ。
「おい、紋太、今日はいっぱい血ぃ吸ってもいいぞ。仕事だ、仕事……」
「ガッテンだ! 聞いてたよ。房之介の野郎、飲んだらもっと馬鹿になるからな。へへっ、じゃぁ、遠慮なく頂くよ」
「おう、飲め飲め……、って、おい、腹はやめろ、痛痒い、肩の処のを吸えってば……」
「何いってやがる。腹の処のが美味しいんだよ。面白い御土産話を持って帰ってやるから、我慢しやがれ!」
『蚤の紋太』は吾輩の血を遠慮なく吸った。
〈紋太の回想〉
「あっ、いらっしゃいませ、房さん。お待ちですよ」
「やぁ、ゲンちゃん、今晩は。久しBoogie じゃねぇ」
「久しBoogie っす。ビールでいいっすか?」
「うん、ビール」
房之介(そしてオイラ)が、九時ちょっきしにバー・チャーリーに着いた時、イカ君はもう一杯やっていたさ。
「ごめん、ごめん。待ったかいねぇ?」
「いえ、俺も、今、来たばかりです」
のくせに灰皿には煙草の吸殻が五つばかりあったゼ。
「先生、この店流行ってますねぇ」
と云っても、この時は未だカウンターにイカ君しか、あとの席は誰も居なかったけどネ。
「ほうよのぉ、此処出来てどんくらいなるんかいねぇ? 十年くらいかな? ゲンちゃんから『此処で商売しようかと思うんじゃけど…、』って相談受けた時は、『止めとかんかい』、云うて止めたんじゃけど……」
「はい、お待ち! へへへ、房さん、もう十二年になります」
マスター、どうもどうも。お宅には見えないだろうけど、こっちからは見えてますゼ。房之介にジャンジャン飲ませてネ、土産話の馬鹿話を待ってる馬鹿が居るんだわさ。
「ほうなん、もう十二年になるんじゃねぇ。ゲンちゃん、俺、とめたよねぇ」
「うん、とめられたねぇ」
「そりゃ、そうよ。ウググググ……、プハーっ! 美味い! ゲップ……。だって、この店の両隣、エッチな店じゃろ? お客さん、来づらいわ! って思て……、おなごの子やか特に来づらいじゃろ、思てねぇ……」
房之介は口の周りを泡だらけにしてそう云ったよ。
「そうっすよね、ピンクサロンに囲まれとんですけんね」
そう云うイカ君は、そう云う店には行くのかな?
「オセロだったら、此処もピンクサロンになる処じゃ」
「オセロだったら?」
うんうん、イカ君、オイラも解らない……。
「まぁ、オセロは『黒』か『白』じゃけどのぉ、ガハハハ……」
「あぁ、成程」
あぁ、成程……。
「ピンクに挟まれたチャーリーが、おっと、ピンクに変わった! アタックチャンスの狙い目は?」
房之助って男は、節約な男だネ。一口で飛んでたヨ。
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「おい、紋太、ちょっと待て! 流石だ、流石に此処迄でも、もう面白い。アイツは流石の戯けだ……。しかし、気になる箇所を一つ見つけてしまったぞ。おいお前、『馬鹿話を待っている馬鹿が居る……』とか何とか云わなかったか? それって、吾輩の事か?」
「そんな事云ったっけか? 聞き間違いじゃないのかい? オイラはそんな事云わないよ。『馬鹿が馬鹿話をしている』とでも云ったんじゃないの?」
「そ、そうか? な、ならいいや。御免、じゃぁ続けてくれ……」
「おぅ、変なケチを付けるない、ってんだ!」
「すまん、すまん……」
つづく
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