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 【小説】吾輩は猫だった(1)

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 吾輩は猫だった。名前は『伊馬把アール(いまわあーる)』。吾輩は十五年前に伊馬把家に貰われてきた。生まれて三ヶ月目に此処に来たので、今の吾輩は、とう年とって五歳である。おかしい? いや、だから、五に十(とう)を足してみてくれ。いや、だから、、とう年、取ってるから十年を足してくれ。吾輩も、もう年寄りだから若く言いたいのである。

 吾輩は、かつて夏目漱石に飼われていた黒猫だった。ビールに酔い、に落ちて出られないまま死んじゃった、あの猫である。一度は天国とやらに登って、そこに居る元猫族の街『ニャン・タウン』で首長をしていたんだけど、酔っ払って神様のトイレを覗いちゃったが為に、神様の逆鱗に触れて、またまた地上に降りてきてしまったって訳だ。それが、なんでか犬なんかに生まれ変わって……。

 

 ほらっ、聞こえてこないかい? 下手っぴなピアノが? その調子外れのピアノを叩いているのが、吾輩の主人、伊馬把房之介、四十七歳である。

 ピアノは弾くものだとばかり思っていたのだが、叩くと云う奏法もあるのだと、伊馬把家に来て知った。どうやら主人は音楽家である。人間界の音楽も吾輩が居ない間に変わってしまった様だ。よく分からない音楽ばかりを奏でやがる。明治の頃には、あんなヘンテコな音楽はなかった。あんなものじゃ、吾輩なんかニャ、音を楽しめないのだ。やっぱり昔ながらのカツオ節が最高である。あぁ~ぁ、荒い波を~掻き分けながら~、――失礼、思わず口ずさんでしまった……。

 主人房之介の母も音楽家で、こちらは琴の大師範らしい。七十半ばの婆さんである。その婆さんの師匠の小友朋子が吾輩の元の主人で、吾輩を大層可愛がってくれていたのだが(と言っても、ひと月程の話ではあるが)、体を壊したとかで、吾輩の世話をするのが大変になってしまったからと、近所の弟子のこの家に吾輩を託す事にしたらしい。

 「房ちゃん、この犬飼うてくれない?」

 「先生、この犬どしたんです?」

 「それが私も歳でねぇ、体がどんならん様になってねぇ、この子の世話も思うようにでけんのんじゃ……」

 吾輩が降りてきた此処は、愛媛県の西条市と云う田舎街だそうで、ヘンテコなイントネーションと妙な方言で人々は行き来する。

 「そうですか、犬ですか。小さい侭だったら可愛いんですけど、大きぃなったら困りますけん……」

 「房ちゃん、この子、大きぃにならんよ。この子をくれた人が言よったけん」

 私はこの婆さんの前にも誰かに飼われていた様だ。少し淋しい気持ちになった。

 「大きぃならんて、そうなんですか?」

 「えっと、何って言よったかいねぇ……、えっと、シバ、シバ、なんとかシバ、シバのなんとか、だったかいねぇ……」

 「えっ、もしかして、豆シバですか?」

 「あっ、そうかいねぇ、うん、そんな事言ぃよった様な気がする」

 「そうなんですか? わぁ、じゃぁ大きくならんですねぇ。豆シバなんじゃ……、うん、じゃぁ先生、飼いましょわい」

 「ほう、ありがとう。ほんなら、餌じゃの犬小屋じゃの、鎖じゃの、後で持って来ましょわいねぇ……、ほんと、好かった好かった」

 吾輩はどうやら豆シバと云う犬種に生まれ変わったようである。

 その日の夕方、主人の友人の原田氏が遊びに来た。

 「おっ、房ちゃん、どしたん、この犬?」

 「ほうよ、母の琴の先生が、飼うのがしんどいけん飼うてくれんでぇ? って言うんで、飼う事にしたんよ」

 「ほう、可愛いがね」

 「ほうじゃ、原田っち、君ん家、こないだ犬が死んだ言よったねぇ。お母さんが辛がっとるって言よったろ? どう、この犬持って行くで?」

 「うぅん、可愛いねぇ、ほじゃけど、大きなったら困るけんねぇ……」

 「原田っち、大丈夫。大きならんけん」

 「いやいや、大きくなるよ、この犬は……」

 「いや、それがならんのんよ。前の飼い主が言よったんじゃけん」

 「ふふふ、あのね房ちゃん、この足、見とぉみん? こんなに大きいアンヨしとんのに、大きならん訳がないがねぇ……」

 「原田っち、教えてあげる。ふふふ、この犬は豆シバなんよ」

 「えっ、豆シバ? 房ちゃん、これ豆シバ? そんな訳ないがね……、まず、シバじゃないよ、この犬。ほんで、間違いなく大きぃなるよぉ」

 「えっ、シバじゃない? 大きくなる?」

 「房ちゃん、顔見とぉみん、こんな顔したシバやかおらんわ……」

 「えっ?」

 「ほんで、足見たら分かるんよ。絶対に大きくなるって!」

 「えっ、マジ?」

 「うん、マジ」

 吾輩はシバ犬でも豆でもなかった様である。

 「じゃぁ、何?」

 「何が?」

 「ほじゃけん、えっと、なに犬?」

 「雑種」

 吾輩は雑種であった。吾輩の前の主人の言っていた、なにやらシバは、シバの雑種と言いたかったのかもしれない。

 

 吾輩が伊馬把家にきて三日目だったと思う。朝、主人と散歩をしていたら、オバハンを連れた毛のフサフサした大きな、、失礼……、毛のフサフサした大きな犬を連れた御婦人に出会った。吾輩は直ぐにフサフサに近づき、黙ってヤツの『オツベのス』を匂ってみた。フサフサは怒りもせず、ヤツも吾輩の『オツベのス』を当たり前に匂ってきた。吾輩は、産物がそこまで下りて来ていたから、思わず屁をかましてしまった。悪気はないのである。ずっと我慢していたのだから仕様がない。すると、でかいなりをしている癖に吾輩に恐れを成した様子で、くしゃみをしながら、前足で鼻を何度も掻いた。成程、成程。吾輩はアズ・スーン・アズにコヤツの暮らしぶりを飲み込めた。コヤツは気の弱い、ウドの大犬の、セレブな坊ちゃんだと解ったのである。

 そうそう、この西条では尻の穴の事を『オツベのス』と言う様である。主人の房之介に初めて会った時にも「こいつはどんな野郎だろう?」と尻の穴を嗅いでみた。吾輩達は、相手がどんな動物であろうが尻の匂いを嗅ぐと、「こいつはこんなヤツだ。ははぁ~ん、こう云う生活を送っているだなぁ~」なんて事が、大体に察しがつく。

 「おい、こりゃ、人の『オツベのス』を無断で臭うな! 感じ悪いヤッチャのぉ……」

 と、そんな単語でもって叱られた。初めて聞いた『オツベのス』と云う言葉が余りにも強烈だったのと、主人のお尻の匂いが超越だったのとで、鮮明に頭に残っているのである。郷に入れば郷に従えと言う事で、吾輩はそれ以後、その言葉を使う様にしている。

 吾輩は、物の興味が犬一倍あるので、ずっとウド君の『オツベ』を匂っていた。

 「こりゃ、『オツベのス』を嗅ぐな! すみません、ご無礼を致しました……」

 房之介は、やっぱり言った。

 「いえいえ、可愛いですねぇ。何ヶ月ですか? その犬?」

 「あっ、三ヶ月らしいです。先日貰ったんです」

 「可愛いですね。お名前は?」

 「ありがとう御座います。えっと、シルバです」

 この時は、吾輩はシルバと呼ばれていた。その頃、伊馬把家にはヨチヨチ歩きな坊主が一人居て、その当時、アメリカか何処か舶来の、漫画放送に心を奪われていたらしく、坊主はそれの主人公のシルバと云うライオンの名前を私に付けやがったのである。主人も、その家族も、「この犬はシバ犬の雑種だし、シルバでいいではないか」と、吾輩をそう呼ぶ事にした。そう云ったのは主人の房之介なのだが、『シ』と『バ』の間に『ル』を付けて雑種を表すなんざ、愚の骨頂である。気に入らない。吾輩は、吾輩の名前は、断じてそれではない! そう申し立てをしたのであるが、相手は犬語が通じないのだから仕方がなかった。大体、吾輩は、元は猫ではあるが今は犬である。猫の侭であったなら、ライオンにも少し位は似ているやもしれないが、今ではその面影は一切見当たらない!

 「そう、シルバちゃん。勇ましいお名前ね。シェパードの赤ちゃんかしら?」

 「シェパード? いえいえ、雑種です。ただの雑種です……」

 「雑種? そうなの? 私はシェパードも飼っていた事がありますけれど、シェパちゃんのオチビちゃんはこんなだったですよぉ。白と黒い処の位置も同じだし、顔もそっくりですよぉ」

 「えっ、そうなんですか? えっ、じゃぁ、もしかしてシェパードの雑種? シバの雑種と聞いてますが?」

 「きっと、シェパードも入ってますよ。だって、うちに居たクウィントリックスちゃんとそっくりですもの」

 どうやら吾輩はシェパードの雑種であった。

 

 散歩から帰って飯を食っていると、「アールちゃん、アールちゃん……」と何者かが誰かを呼ぶ声がした様な気がした。

 「あら、アールちゃん、ご飯を食べよんかね? 美味しい?」

 アールちゃんと云う名前も大層よく覚えはあるが、それよりも何よりも、今はそれどころではない。吾輩は夢中でがっついていた。これは性と云う他ないのである。本来の吾輩は、文豪の飼い猫なので――元は野良ではあるが……、上品におちょぼに口を動かす質の筈が、新しいこの身は、これにしか楽しみがないと云わんばかりである。

 「アールちゃん、これ、アールちゃん、私よ、アールちゃん……」

 お皿が空になったので声の方を振り向くと、以前の主人がそこに居た。

  ワンワンワン……

 「そうかね、そうかね、覚えてくれとんかね、よしよし……」

 吾輩はとても懐かくて――まだ二、三日しか経っていないのに……、体が勝手に溌剌となった。ちぎれんばかりの尾っぽフリフリマーケットである。

そこへ、「おい、シルバ、まだご飯が足りんのんか?」と、今の主人。

 「あっ、先生こんにちは」

 「あら房ちゃん、アールがお世話になっとるね。元気よぉに、今、あいさつしてくれたんよ。ワンワン言うてね、私を覚えてくれとんじゃねぇ……」

 そうである。そうなのであーる。アールこそは吾輩の名前なのであーる。

 「アール? あっ、アール、アールはこの通りに元気ですよ。可愛くて、うちの坊主なんか喜んで、喜んで……」

 主人の房之介は、吾輩の家(あいつ等は犬小屋とかと抜かしているが)の屋根の下に黒マジックで記された名前、所謂、表札を見ながら、お愛想を言った。――家を持ってきてくれた時に気付けよ! 吾輩の名前を勝手に『シルバ』と付けたその時に、「吾輩はアールだ!」と猛抗議したのだが、彼は憐れに、学がないからか、理解力が欠如していた。

 「大事な家族が増えましたよ。妻も両親も可愛がって、もう、犬ですけど猫可愛がりしてます」

 なら、吾輩にも貴様等と同等の物を食わせろ! んっ、犬を猫可愛がり? あんまり面白くないワン。

 「そうなの? それは好かった。アールも幸せじゃネ」

 その時から吾輩の名前はアールに戻った。


つづく

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