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誰が虫を殺すのか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 ご存知ない方は意外に思うかもしれないが、昆虫を採ったり標本にすることについては、一部で強い非難の声がある。以前、子供向けのイベントで標本作りの教室を開こうとした際は、私も長いお叱りのメールを頂戴した。人は赤の他人が相手だと、いくらでも平気でものが言えるらしい。
 何の目的であれ、虫を殺すのは残酷だという意見の根底には、「人も虫も命の重さは同じなのだから」という素朴な生命愛のようなものがある。しかしそういう方は、ゴキブリやハエでも殺さないのだろうか。私の場合、養老先生のように、野山へ出かけて行って虫採りをするわけではない。自宅のベランダに迷い込んできた虫を捕まえて標本にする。いちばん多いのはカメムシの仲間である。そう話すと、さっきまで文句を言っていた人が急に黙る。それだけを見ても、「虫を殺すな」という主張が薄っぺらなセンチメンタリズムだとわかる。
 ゴキブリやハエは害があるから仕方ない。そう主張されるかもしれない。害虫なら殺しても構わないというなら、その線引きをする根拠は何か。理由はどうあれ、殺してよい生き物とそうでない生き物を分けているのは人間の勝手な都合であって、牛は殺してもいいがイルカはダメだと言うのは動物愛ではない。「感情的な反論はどこかに嘘がある」と養老先生は言うが、虫を採るなという主張も、本当は自分が気に入らないだけなのに、それをさも動物愛であるかのように装っているのではないか。少なくとも私にはそう見える。
 「私は虫を殺しません。」そういう人を、私は信用できない。日常生活の中で、人間がどれだけ虫を殺していると思っているのか。車を洗車していると、フロントガラスに虫の死骸がついているのがわかる。車にぶつかって死ぬのである。一台の車が廃車になるまでに、何百万の虫が殺されているだろうか。よく平気で「殺しません」と言えると思う。
 ケンタッキーの日本法人は毎年鶏供養をしているが、じつは虫供養もある。鎌倉の建長寺で、毎年6月4日に執り行われる。アースやフマキラーも出席している。私は「後ろめたい」という気持ちがあることは、とても大事なことだと思う。もちろん、そういう気持ちがあるから許されるとは思っていない。ただ、後ろめたいという気持ちがある人は、自分でブレーキを踏めるから、あまり極端なことはしない。後ろめたさのない人間は、何をするかわからないから怖い。上述のお叱りのメールは、脅迫の一歩手前だった。
 でも、殺して標本にしなくてもいいじゃないですか。観察したら放してあげればいいじゃないですか。環境破壊が進んで昆虫が少なくなっているのだから、これ以上虫を採らないでください。そうおっしゃる方もいる。しかし、私は逆だと思う。昆虫を捕まえて調べる人がいなくなったら、もっと虫がいなくなるだろう。
 あなたは人体を解剖したことのない医者に、自分の病気を診てもらいたいですか。MRIやCTスキャンがあるから、解剖なんて必要ないと思いますか。もし解剖を野蛮だという理由で禁止したら、やがて病気を治せる医者はいなくなるだろう。それと同じように、虫採りを禁止すれば、「いつの間にか虫がいなくなっちゃったね」という未来が来る。
 われわれヒトは、意識から消えたものを現実からも消す。そうやってさまざまなものを消してきた。虫もまた同じ運命を辿ろうとしている。だから私はあえて言う。虫を殺すなだって? 虫一匹棲めない家に暮らしている人間が勝手なことを言うな!
(2023年9月加筆修正)

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥


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