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ファイト・クラブ

最近映画を見る機運が高まっている。今更洋画の素晴らしさを再認識した、というのもあるけど、今の環境だと定期的に泣く新生児の世話をしながら摂取できるエンタメとして映画は申し分ないということに気づいたというのも大きい。

マンガも大好きだしマンガでもいいんだけど、やっぱり文字を読み進めなければいけないので消費カロリーが高い。当然頭も使う。正直育児や家事で疲れているので少し休みたいところ(と言いつつ進撃の巨人を一気読みしたが…その話はまた別で)

映画に関しては映画の世界に没入するだけでいいので楽なのである。休みたいけどエンタメを摂取したいという贅沢な希望を叶えてくれる素晴らしい媒体なのだ。また、大体新生児の泣く感覚というのが2~3時間に1回なのでちょうどいい。もし映画の途中で赤ちゃんが泣き出してしまっても止めておけばいいので非常にフレキシブル。最高。

ということで今度はファイト・クラブを見ました。こちらもパルプ・フィクション同様マカロニ大聖堂さんのみんなで(中略)ベスト100の、なんと第2位の映画です。

鬼才デヴィッド・フィンチャー監督の1999年の作品。フィンチャー監督といえば俺の中では「ソーシャルネットワーク」で、Facebookのマークザッカーバーグの半生、Facebookがどのように誕生し、どのように世界を変えていったのか、というところを「人間」という観点から生々しく描いていたのが印象的だったが、ファイトクラブも彼の作品のご多分に漏れずとんでもない映画だった。

ストーリーは、エドワードノートン演じるエリートサラリーマンの主人公”僕”を中心に展開していく。”僕”は何不自由無い生活を送っていたが不眠症に悩んでいて、いろいろと試行錯誤を繰り返す中、飛行機の中でブラッドピット演じるタイラーダーデンに出会い、そこからいろいろとおかしなことになっていくという物語。物語の過程における伏線回収が見事としか言いようがなく、映像の暴力ともいえる衝撃的なシーンの応酬。一体この次何が起こるんだろうという不安。とにかくすごいものを観た、という感想だった。正直「ファイト・クラブ」という名前を聞いたときに、なんかみんなで頑張るクラブかなんかの話なのかなというイメージを持ったけど到底そんな生易しいものではなかった。よく誰かを応援するときに「ファイトー!」とか言ったりするけど、そもそもこれが良くないことに気づいたほうがいい。ファイト(Fight)というのは英語圏ではまず”喧嘩”というのが最初に来る。ほかにも口論する、闘う、もめる…戦争する、といった意味もあるぐらいネガティブなワードなのである。英語圏の人はまずめったに使わない言葉である。

最近はジェンダーダイバーシティの観点から「男性を”男らしさ”から解放せよ!」っていう運動も盛んにおこなわれているけど、やっぱり俺はタイラーのような男に憧れてしまう気持ちはよくわかる。事実、某雑誌の魅力的なキャラクターランキングではタイラーダーデンは堂々の1位だったらしい。それぐらいかっこいい。この考え方の根底にあるのは男らしさからの解放ではなくて「男(女)はこうであるべき!」という思い込みを無くしていくことに意味があるんだと思っている。なので「こうありたい」と思うことはまったくもって悪いことではない。

ノーラン監督が仕組みや時系列を巧みに操り物語を紡いでいくのに対し、フィンチャー監督はとにかく人間の深層、内面を深堀してゾッとするような展開に持っていくのが上手い。本当に、空いた口がふさがらなかった。ものすごい映画です。

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