見出し画像

六月の読書:『カスパー』

 こんにちは。前回お読みくださった方、ありがとうございました。ネット上で個人が自由に発信できる時代においても、書いたものが誰かに届くのは新鮮な喜びです。
 さて今回は『カスパー』(ペーター・ハントケ、池田信雄訳、論創社)。ノーベル賞作家であるハントケが1966年に執筆した戯曲で、今年行われた日本での公演にあたって出版された新訳です。

公演の感想

 実は東京芸術劇場での上演を観に行った際、興奮冷めやらぬままにTwitterに長文の感想を投下していた。

 戯曲の内容についての感想は今もほぼこの通りだが(手抜き)、改めて気づいた点や文字で読んで印象の変わった点などを記す。

※『カスパー』の内容をご存じならば一連のツイートはお読みいただかなくても大丈夫。
ご存じでない方に説明すると、ある日突然文明社会に登場した、ほとんど言葉を知らないカスパーという人物が、プロンプターという抽象的な存在が投げかけてくる言葉の嵐に囲まれながら、だんだん人間らしい感覚や習慣、語彙を身につけていくありさまを描いた戯曲である。

読後の感想

 文字で見てまず印象的なのは、内容以前にその書かれ方。いわゆる台本ってあまり目にしたことがないけど、一般的に

ト書き。
役名「セリフ」

という形式で書かれていると思う。
 でもこの本はとにかく饒舌で詳細なト書きから始まり、舞台上でカスパーとプロンプターが動き始めると、それぞれへの指示が上下に分割され、そのト書きの波間に浮かぶようにセリフが表記される。

俳優さん大変だっただろうなあ

 セリフが抽象的で、舞台上のシチュエーションに沿っているとは限らないため、覚えるのが難しそうである。カスパーとプロンプターのタイミングを合わせるのも。
 その上ト書きの指示が執拗で具体的で、意図的に演じるのは難しいくらい細かいところまで言及してくる。

 当たり前だが、公演と本との最大の違いはこのト書きを目にするかどうかである。そしてト書きは台本を読む演者に対する指示なので、小説の地の文よりも強く具体的に読み手に干渉してくる。
 実際に舞台で演じるつもりはなくても、ト書きを読んでいるうちにカスパー(あるいはプロンプター)としてどういう風に動くのか、ということを頭の中で考えてしまう。身体的な指示が多いので、めちゃくちゃ複雑な旗上げゲームをしているみたいになる。カスパーがプロンプターにあれこれ命令されたらこんな気分なのかも。

 そう感じると同時に、プロンプターという役に対する解釈がちょっと変わってきた。
 観劇直後は、ツイートしたように、プロンプターというのは要するに周囲の人間や社会が押し付けてくる規範であり(「おまえは〜なければならない」といった強い口調が多い)、カスパーが人間らしくなっていくと同時に自分の内面に取り込んでいく存在なのだと単純に考えていた。
 しかしそれ以上に外部から強く干渉してくる存在であるト書きと比較すると、プロンプターはもう少しカスパーの内部に近い存在というか、もともとカスパーの内部に生じていたスーパーエゴと完全な外部の境目くらいにいるイメージになる。
 様々な規範や文法が不自然に細かく言語化されたセリフの数々は、カスパーに言葉を/で教えている内容を表現したものというより、カスパーが言葉未満の部分で意識したり感じたことを我々に分かりやすいように言葉にしたものなのかもしれない。あるいはそのどっちでもあるのかもしれない。

 その他ト書きで改めて印象的だったのは、スポットライトとかラジオやテレビの音とか、比較的近代的な道具を使う指示が多いことだ。
 つまりこの作品は人間が社会化していく普遍的な過程を表現するだけでなく、特に近代における人間の変化や適応に重点を置いているのではないかと思う。
 近代ではメディアの発達によってより広範囲の人間が同じ情報や文化を共有し、より均質化したふるまいが求められるようになった。そういう視点で見ると、カスパーは社会性を身につけていくひとりの人間というだけでなく、近代化の過程でそれまでの生活様式を捨て大きく変化していった人類全体の象徴にも思えてくる。

「ぼくは そういう 前に 他のだれか だった ことがある ような 人に なりたい」

『カスパー』、論創社、p14

(私が)表現に充分な言葉を持ち合わせていないために箇条書きにするしかない感想

・人間的な感情をこそげ取ったような戯曲であるにもかかわらずカスパーのセリフに滲み出ているエモさ(雪のエピソードが超好き)

・戯曲のト書きと小説の地の文とプロンプターの関係

・執筆当時の時代背景との関係(全体は普遍的なテーマを扱っているとはいえ、p116のプロンプターのセリフなどは時代背景に依存している感じがする)

・休憩時間の出来事までみっちり指示されたト書き(ちなみに今回の公演では休憩なしでした)

・ということはハントケは観客までコントロールしようとしている? というか演者と観客を区別していないか、既存の区別の仕方に異議を申し立てている?

・一連の出来事で構成された物語を演じるのではなくて舞台の上で出来事を進行するという意味ではライブパフォーマンス的だけどそれでも演者が台本の内容を覚えて演出に従って演じる以上は演劇なんだけど気になるのはやっぱりハントケ的に演者と観客の関係、というか演者のいる空間を何だと思っているのか。フィクションなのか。観客席と地続きなのか。演者は生身の演者なのか。

彼らはすぐに、自分たちが目にするプロセスが何らかの現実の中でなく舞台の上で進行するものであることを認識する。彼らは出来事に立ち会うのではなく、演劇的なプロセスを見るのである。このプロセスは劇の終わりに幕が閉じるまで続く。出来事が生起しないのであるから、観客は出来事の続きも想像しようがない。

『カスパー』、論創社、p6

余談

 前回と同様、『カスパー』から連想した他の作品や、並行して読んだ本を以下に挙げる。

 我々は言葉と同じように、表情や身体の動かし方も社会の中で躾けられ、身につけていく。『身体の零度』(三浦雅士、講談社選書メチエ)は、人間が意識や言語、身体を発見し、それを制御しようとした「はじまり」から、文明化の過程で自己と他者の区別が明瞭になっていき、さらに近代化によって共同体や民族ごとの身体所作が世界的に均質化されていく経緯、そこから生まれた芸術表現としての舞踊にいたるまで、数多くの資料や文学作品を駆使して論じている本だ。
「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」(=身体の零度)というといかにも原始的な人間をイメージしそうになるが、そのような身体を標準とみなすようになったのは、むしろ「きわめて後世の、一般的ではない文化的成果」である。この本によれば、それ以前の身体は過剰に意味づけられ道具のように加工されることによって自己と世界、自己と他者を切り離してきたのであり、その距離の拡大こそが文明化の過程なのだ。 
 各文化における視線、表情、服飾の意味や、近代化以前の西洋の職人や軍隊の様子などトリビアルな知識、引用される文献も面白いのだが、私にとっていちばん興味深く勉強になったのは、一見当たり前で絶対的に思えることを相対化したり、そこから逆説のような結論を導き出す著者の視点そのものだ。
 たとえば衣装を身につける経緯における原因と結果の転倒とか、「野蛮は文明のはじまり」とか、都市化における不潔や不健康の発生によって生じた清潔や健康への関心(「ある意味では農村に不潔はない」)とか。
 もちろん何でもかんでも定説を疑えばいいってものではないが、やや抽象的で漠然とした問題を突き詰めて考えるときなどには、豊富な知識に加えて著者のようなしなやかな視点や想像力が必要だろうと思う。

 自然状態に、自然な身体など存在しない。自然な身体とは、もっとも望ましい状態で生育した身体ということである。つまりそれは、むしろもっとも人工的な、もっとも不自然な身体であるといっていい。逆説というほかない。

『身体の零度』、講談社選書メチエ、p221


ガラスの街』(ポール・オースター、柴田元幸訳、新潮文庫)には、幼少期に言葉を教えられず暗い部屋に閉じ込められて育ったピーター青年が登場する。まさに史実のカスパー・ハウザーのような環境に置かれていたわけだ。作中でもカスパーをはじめ言葉を知らずに育った「野生児」への言及がある。
 ピーターが探偵にある依頼をするためにかけたはずの電話が、間違って主人公クインのもとにかかってきたのをきっかけに、クインはピーターをめぐる奇妙な事件に巻き込まれる……のだが、物語は事件の顛末に主眼を置いていない。クインが動き回るほど、世界は謎めいた様相を呈していき、クインは自分自身を含めて何もかも見失いそうになっていく。
 一般的なミステリーやサスペンスのような盛り上がり方ではないが、結末に向かう展開はやはりスリリングで、読後感は『カスパー』観劇後のぽかーんとどこかに穴が空いた感じに通じるところがあるかもしれない。
 クインを取り巻く世界の「よくわからなさ」は、見た物全てが誰かに言葉で説明してもらえるわけではないという意味では現実世界のようだ、と言えるかもしれないけど、読んでいる時の感覚ではどこか空虚で書き割りめいてもいて、それは結局クインが作中でほとんど本名で生きていないことと関係があるかもしれない。別の名前を生きる=演じるというのは、自分の作り出した世界を生きることでもあるように思うからだ。
 また、作品全体のまとまりを無視するかのような勢いで所々に姿を見せる、言葉や物語についての過剰な記述もそれ自体が魅力的だ。たとえばピーターの語りそのものや、新大陸を新たなバベルに見立てる妄想じみた論文、『ドン・キホーテ』の物語の中で起きていたことをめぐる評論など。ぶっちゃけた話、小説の筋を追うよりこっちの方をもっと読みたくなっちゃうこともあるくらいである。

カスパー・ハウザーは語る」(スティーヴン・ミルハウザー、柴田元幸訳、白水Uブックス『ナイフ投げ師』収録)は、『カスパー』とは対照的に史実のカスパー・ハウザーを素材に書かれた短編小説で、ニュルンベルクで保護されて三年間過ごした時点のカスパーが大衆を前に演説しているという設定。その演説の内容で全編を構成している。
 演説するカスパーはひどく饒舌だ。言葉遣いに誤りはなく、丁寧で、辞書的に正しすぎると感じさせるほど。その正しさはかえって不自然で、カスパーの「異物」感を強調しているように思える(せっかく他のみんなと同じように言葉や人間らしさを身につけたのに……)。
 演説の内容はそれまでの彼のたどった道のりや、当初の混沌とした世界の感じ方や鋭い感覚、そして「カスパーであるとはどのようなものなのか」。出来事については実際の史料に沿っているようだが、「カスパーであるとは」をカスパー自身が自分の言葉で語る部分には、終始淡々とした語り口であるにもかかわらず、何とも言えない切なさやもの悲しさを感じてしまう。その感じは『カスパー』に滲み出ているものにも通じるように思った。
 逆に『カスパー』と違うのは、カスパーの言葉がどこに向けられているのか、何を意識しているのか。誰に向けるでもない内面がむき出しにされているのを観客が覗いているような形の『カスパー』に対して、こちらのカスパーはカスパー自身が目の前の大衆=外部を意識してパフォーマンスをしている。
 演説の言葉がそのまま小説なので、カスパーが言葉を向けている「ニュルンベルクの紳士淑女の皆さん」は読者にも重ねられる。カスパーが「ついでの話」と言いながらさりげなく指摘する大衆の残酷さは、ごく小さな針のように微かな鋭さで、読んでいるこちらにも直接突き刺さるのだ。

 カスパー・ハウザーであることは、その疑わしい生の一瞬一瞬、いかがわしい存在の全繊維において、カスパー・ハウザーでないことに焦がれることです。自分自身をすっかり置き去りにして、自分の視界から消えてしまいたいと焦がれることです。こう申し上げると皆さんは驚かれるでしょうか? ですが申すまでもなく、これこそ皆さんが、私が欲するよう教えてくださったことなのです。そして私は熱心な生徒です。皆さんの助けをお借りして、自分の表も裏も隅々まで必要なものを身につけたのです。

「カスパー・ハウザーは語る」、白水Uブックス『ナイフ投げ師』、p274-275


 一冊ごとに記事ひとつ書けそうな量になってしまった……
 こうして色々読んでみると、人間が言葉を身につける過程よりも、言葉のない世界で育った人間はどうなるか、のほうが私は気になっているみたい。実験できないし。このテーマを扱った面白い本をご存じの方は、是非教えてください。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,902件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?