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五月の読書:『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』

 はじめまして。 これからこちらに読んだ本の感想を記録していこうと思います。読むのも書くのも遅いので、とりあえず月に一度の更新が目標。 よろしくお願いいたします。
 今回は 『謎ときサリンジャー 「自殺」 したのは誰なのか』 (竹内康浩・朴舜起、 新潮選書)。文芸批評の本なので、感想を書いていくうえで、本書とサリンジャーの小説のいくつかの内容にも触れますが(そういう小説じゃないけど)ネタバレが気になる方は注意してね。

感想

 小林秀雄賞受賞の報道で本書を知った私は、サリンジャーのほとんどの作品を未読にもかかわらず即購入、 一気に読んでしまった。というのも本書で中心的に取り上げられている「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』収録)という短編小説が私にとってあまりにも不可解で、 ちょっと読んでて腹が立って、それでいてどうにも心に残り続けるものだったから。

 この読後感の最大の原因は、なんといっても結末のシーモア・グラスの自殺にあると思うのだが、本書はまず「それは本当に自殺だったのか?」と我々に問う。
 もちろん、「バナナフィッシュ」の中で男が拳銃を自分のこめかみに向け引き金を引いた事実そのものを否定するわけではない。作中にさりげなく織り込まれた描写や、のちに書かれた中編「ハプワース16、1924年」のシーモアの「予言」などを根拠に、最後に引き金を引いたあの男は「シーモアでもありその弟バディーでもある」という読み方を提示するのだ。

 二つのビー玉がぶつかり合うように、あるいは片手と片手がぶつかり合って初めて音が鳴るように、結末の銃声(作中に音の描写はないが)はシーモアとバディーの二人で鳴らした音であり、その音が鳴るとき死んだ兄と生き残った弟がぶつかり合い、生と死の区別が無効になる……中編「シーモア序章」で語られるビー玉遊びのエピソードや、『ナイン・ストーリーズ』のエピグラフに掲げられた白隠慧鶴「隻手音声」を参照しつつ、本書ではそのように表現されている。
 それはバディーがシーモアを射殺した(あるいはその逆)ということではない。ご丁寧にも、中編「ゾーイ」の記述によってバディーの「アリバイ」は証明される。
 では、具体的には何を意味するのか。そもそもシーモアは何故死ななくてはならなかったのか。「ハプワース16」でシーモアがそれを「予言」した意味は何なのか。

 本書は『ナイン・ストーリーズ』内の別の短編「テディー」や禅の思想を引用し、川のように「一方向的に流れ去る時間」というのは有限の生しか持たない人間による観察において知覚されたものにすぎず、シーモアやテディーはそうではない時間のあり方(過去も現在も未来も全て同時に存在する「海のような時間」)を生きていたと説く。
 そこでは論理の成り立ちは意味をなさず、シーモアの死は因果律の外で起こったことであるから、死の原因を探ったり悲劇として受け止めて嘆いてみせるのは適切ではないことになる。
 ちなみにここで「バナナフィッシュ」の存在に大いに関連するであろう、サリンジャーが影響を受けた人物の名前が出てきて私は膝を打った。

……みなさんついてきていますか?私は正直に言ってこの辺りの議論を追いきれている自信はない。
 ただ、一連の難解な思想がシーモアやテディーが見ていた世界そのものを説明していて、それを完璧に理解できなければ小説が読めない、というわけではない、と思う。
 グラス家をめぐる物語は、のちに作家となったバディーによって書かれたものということになっている。つまり「バナナフィッシュ」はシーモアの自殺を描いていながら、そこから読み解かれるべきはむしろそれを記述したバディーの背負うものだ。
 それならば、難解な思想はシーモアの世界観を説明するものというよりも、彼の死に向き合うためにバディーが追求した思想、バディーなりの一連の出来事への理解なのだろう。死んだ者と残された者の「違いを消し去る」ということ、生者から死者への応答という課題に対して、バディー(サリンジャー)がこのような形で取り組んだということなのではないか。
 そして、それが、生者の片手と死者の片手が音を鳴らすということ、引き金を引いたのがシーモアでもありバディーでもあるということの意味だろう。

 また、サリンジャーがその難解な思想、とりわけ体感不可能な「海のような」時間感覚を読者に疑似体験させるように作品に施した仕掛けの存在も本書には示唆されている。
 それはシーモアの「予言」に関わるもので、普通に読んでいたら気づけないようなごくささやかなことではあるが、予備知識なしにそれを体感できたとしたらとても貴重な読書体験になっただろうなあと思う。

 本書の最後の章では、以上のような生者と死者の物語という文脈で長編『ライ麦畑でつかまえて』を分析している。一般的に「インチキな世の中への反抗」として理解されることの多いこの小説を、残された者である主人公(ホールデン・コールフィールド)が、死者である弟(アリー)と出会い直し、「キャッチ」ではなく「ミート」するに至る過程を描いたものとして読み解くのだ。
 この章は、それまでの章で立てられた仮説をやや強引に『ライ麦畑』に適用しているようにも感じられる。でも、生き残り、何度も失敗をしながら死者との「ミート」のしかたを身につけていくホールデンの物語を、死んでいったシーモアやテディーの物語と同じ視点から読み解くことで、それぞれの小説の読み方の幅が広がるように思う。

 本書を読み終えてまず思うのはいかに自分が小説を読めていないか、そして丁寧に読み解いていくことでいかに豊かな世界が目の前に広がるかということだ。

私たちはついつい感情移入しやすい部分あるいは理解しやすい部分に注目して、そこを手がかりに対象全体を解釈しがちである。しかしそのような読み方は、結局、相手を自分たちのレベルにいわば引きずり下ろすようなものだ。私たちは未知の高みに登っていこうとすべきではないのか。

『謎ときサリンジャー』、新潮選書、p128

とは、禅の時間観に言及する際の本文中の言葉だが、これは特別難解な対象に接する際以外にも肝に銘じておきたいと思った。

 また、これほどの力作を読んで新たな知見を得てもなお、「バナナフィッシュ」を読むときのあの得体の知れない感覚、どこか空恐ろしい気持ちは解消されることはない。
 とはいえそれは不快な状態ではない。むしろ本書のおかげでサリンジャーの作品は私にとって怪しい魅力を増したともいえる。対象となる作家や作品の可能性を広げ、未読の作品をも読みたくさせる……私は批評というジャンルに明るくないのだが、そんな状態で手に取ったのがこのような確かな愛と知識に裏打ちされた本で良かった。

余談

 さて、ここからは余談として、本書を読んだ際に私が想起したものを挙げておきたい。関連作品というか、連想作品とでもいうべきもの。

 まずは『時間と自己』(木村敏)。本書において人間の時間観の限界について説明される際に繰り返し引用されていたので読んでみた。
 引用のされかたから、てっきり本書のように「海のような時間」を考察する本かと思っていたら、むしろ「単純にわれわれに対して外部から与えられているようなものではない」「私自身がいまここにあるという現実から切り離すことのできない」現象としての時間を、いくつかの精神疾患の症例を通して分析する本だった(木村氏は精神病理学者)。
 だから本書の主張の補強や裏付けとして読むことはできないが、その反対に自分自身と時間との関係についての認識を深めることができる。
 また、離人症や分裂病などの患者自身の体験を語る言葉と、それにもとづく木村氏の分析からは、辞書的な症状の説明では理解しにくい「世界の見え方」のようなものがリアリティをもって伝わってくる。理解の難しい対象への接し方や解釈という点では、本書とどこかで通じるものがあるかもしれない(こじつけ)。

 もうひとつ。禅の思想の説明に対してどこか釈然としない、胡散臭さのようなものを感じたときに、たまたま並行して読んでいた『言葉と悲劇』(柄谷行人)内の「日本的「自然」について」「世界宗教について」あたりがそのモヤモヤに触れてくれる感じがした。
 古今東西の様々な思想からそこに働くシステムを抽出して共通点や相違点を分析しているのだが、「悟り」とか「超越」のナルシシズムとか、そこに「他者性」が存在しないといった指摘がめちゃくちゃ刺さった。

 注意しておきたいのは、共同存在・社会的制度・共同主観性などをいうことは、けっして「自己」を超えたレベルに行くことにはならない、ということです。(中略) 
 かりに禅宗でもなんでもいいのですが、「悟った」 人の意識が勝手に変容して世界が新しくなったとしても、その横にいる他人に対しては、そのことはまったく関係ないわけです。自分が良くなればそれでいいのだから。したがって「自然」の論理というのは、ナルシシズムと共同体、決まってそういうものと結びついていると思います。

「日本的「自然」について」、『言葉と悲劇』、講談社学術文庫、p206

 それらの指摘がそのまま私自身のモヤモヤの答えになるわけではないし、当然ながら本書やサリンジャー作品への感想にも直接繋がりはしない。だが一冊の本を読んでいるときでもその吸引力の強い思想に飲み込まれすぎないというか、こうして寄り道したりするのも「他者性」を意識することなのかもしれない。

 ここまで理屈っぽい本ばかり並べてきたが、長々と連ねた言葉と同じことを一発でバーンと示せてしまうことがあるのが芸術の凄いところで、BUMP OF CHICKEN「カルマ」にはまさにそういうところがある。
 RPGの主題歌なので、その物語に沿った歌詞なのだが、印象的に使われる「ガラス玉」(=ビー玉!)というモチーフ、ふたりの人間が「ひとつになる」という部分など、本書のサリンジャー観に通じるところがあるのではないだろうか。

鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触り合って
形が解る

「カルマ」

 作詞の藤原氏がサリンジャーを読んだことがあるのかどうかを私は知らないし、その影響の有無を言いたいわけではない。ただ優れた小説や批評と楽曲が偶然に共鳴する部分を発見したのが楽しかったので紹介してみた。

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