見出し画像

九月の読書:『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』

 こんにちは。読書感想文を書き始めてこれで五回目、決まった期間に本を一冊きちんと読み切れるようになったのは嬉しいです。また、こうして感想を書くことや今まで扱ったテーマとの緩やかなつながりを考えて本を選ぶと、普段読まないタイプの本を読むことも増えて、それもまた面白かったり。
 今回は『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』(久保(川合)南海子、集英社新書)。自分自身の推しについて知りたくて本を読んでいるフシのある私としてはついに本丸か!? というような気持ちで手に取りました。

感想

 本書は認知科学において提唱されている「プロジェクション」という概念を、「推し活」などの具体例を通して一般向けに分かりやすく紹介する本だ。だから主眼は推しや推し活よりもむしろプロジェクションのほう。
 とはいえ著者自身推し文化(というかオタク文化)の内側を生きているタイプの人らしく、推し文化に言及する際の書きぶりは愛にあふれて楽しそう。
 なので、珍獣を観察するような視線に怯え続けてきたオタクたちは安心してほしい。逆に推し文化、オタク文化にちょっと触れてみようと思って本書を手に取る人は、突如として開陳されるアンパンマンのBL妄想(腐女子によるプロジェクションの例)などに面食らうことになるかもしれない(笑)

 それはさておき、プロジェクションというのは、ある主体が物理世界(投射元、ソース)から受け取った情報によって表象(イメージ)を構成し、それを物理世界(対象、ターゲット)に映し出して(投射して)世界を意味づける、というこころの働きのことだ。
 なにも特殊な状態でのみ発動する機能ではなく、普段の生活において我々はソースとターゲットが一致している「通常の投射」をして世界を眺めていることになる。
 本書において、推し文化(二次創作、2.5次元俳優などなど)を通して説明されるプロジェクションは、これとは別の、ソースが外界に不在の「虚投射」やソースとターゲットが不一致の「異投射」、そして投射した対象からのフィードバックによって主体が変化する「バックプロジェクション」だ。
 こうして専門用語だけを並べてみても、その意味を実感をもって理解するのは確かに難しいなと今書いていて思う。著者によって具体的な推し文化にたとえてもらうことで、読み手は自分のよく知る表象を難しい概念に投射することができ、なんとなく分かった気になれる、のかもしれない。そうか、たとえにはそういう機能があるのね!

 そうして読み進んでいくと、推し文化の中だけでなく日常生活だとか人間の活動全般におけるプロジェクションにも理解や関心が深まるように、本書は書かれている。また、こころの働きというと一見頭の中で完結するもののように思えるが、身体性とも強いつながりがあることもわかる。
 なにせ、ホモ・サピエンスが世界各地に居住域を広げ、今日まで生き延びてこられた力の根幹にもプロジェクションが関わっているというのだ。目に見えないものや今ここにないもの、未来といった抽象的な概念を想像し、なおかつそれを集団で共有できるということ……それがホモ・サピエンスのみが有する知性のかたちだというのなら、プロジェクションは言語や文字の発生とも大いに関係があるのではないだろうか。お、今まで読んできた本ともつながってきたぞ。

 と、楽しく読めた本なのだが、自らもオタクであり推し活をしている私が自分に引きつけて読んでみて、引っかかる部分もちらほらあったのだった。それについて以下で語る。

オタクとしての感想

 大雑把にいうと、推し文化についてもプロジェクションについても楽観的というか良い面、楽しい面ばかりに目を向けすぎていないか? という部分にモヤモヤを感じたのである。

 本書において投射の対象として描かれる「推し」は漫画やアニメの作品や登場人物だけではない。2.5次元俳優やアイドル、モノマネ芸人の例も紹介されている。
 もちろん、プロジェクションが日常的なこころの働きである以上、生身の人間だってその対象から外れることはない。それに認知科学という学問において焦点を当てられるのはある主体個人のこころや脳の仕組みだろうから、その主体が働きかける相手の内面を想定しても意味のないことなのかもしれない。
 だが、人間を対象としたプロジェクションを、モノへのそれと同列に、無邪気に語ることはできないように私は思う。対象自身の「こうありたい」「こう見られたい」という表象や売り出し方と、その人へ向けられた投射のズレが存在するからだ。そのズレが大きいと、いわゆる厄介ファンとかストーカーのような人が生み出されることになる。
 また、そう大きなズレがないとしても、たくさんのファンから投射されるような仕事にはストレスや犠牲がつきものだ。解決することはできないとしても、ファンから彼らへ向けられる視線について考察するときには、その点を無視することはできないと思う。少なくとも、ファンによる想像的な(=一方的な)コミュニケーションと、対象自身の意思が介在する相互的な交流の違いについては、どちらもプロジェクションの産物ではあるとしても自覚的でありたい。

 また、プロジェクションは個人のこころの中だけにとどまらず、多くの人に共有されることによってコミュニティや社会に影響を及ぼす。本書にも腐女子のコミュニティや科学理論の醸成といったかたちで具体例が紹介されている。それはある種の妄想の共有、狂気の共有でもある。
 科学理論のように、多くの検証や議論により蓋然性の高さが確かめられ、全体が発展していく分野なら、それも有意義ではあると思う。
 ただし妄想が妄想のままに拡大し、検証される必要性が存在しないような分野では(あるいは検証できないほどに妄想が肥大しきった場合には)、行き着く果てが同じものを共有できない他者への攻撃や排除となってしまう。たとえばそれは推し文化の中にも存在するし(推しへの「解釈」の問題など)、カルト宗教とか、もっと一般的には国家や政治といった「共同幻想」が危機に瀕したときにも顕在化するだろう。
 小難しい理屈はともかく、少なくともオタクの妄想に関しては、多くの人に共有されたもの(王道)が正義というわけではないしそもそも誰かとつるんで共有するためにオタ活推し活しなければいけないというものでもないよ、という少数者や独りぼっちの人に優しい価値観がオタク内部にも広がってほしいなあ。孤立を恐れずといえどもやはり圧力は感じるので……おっと、本の感想から逸れてしまった。

 推し活にしてもプロジェクションにしても、その仕組みを数々の実験の紹介を通して解説してくれるのが本書の魅力のひとつではある。あるのだが、「人間の脳やこころは本来こういう仕組みになっている」が「だからこれは自然な現象だ、このままでいいんだ」という無批判さに見えてしまう一面もある。そしてそれが、先にも述べたような楽観的な印象につながっている。

「推し」に関するあなたの行動をあらためて考えてみましょう。あらゆる活動において、あなたはあなたの時間や労力、お金などの資源を「推し」に分け与えていることに気がつくでしょう。けれど、あなたがあなたの資源を削り、「推し」に分け与えていることは苦痛でしょうか? いいえ、決してそうではないはずです。それはあなたを幸せな気持ちにしていることでしょう。

『「推し」の科学』、集英社新書、p142

 楽観的すぎて、ここだけ引用したらちょっと怖いくらいだ。
 推し活をするうえで個人的な悩みやトラブル、他者との衝突はどうしても発生すると思う。あるいは推しとの関係に変化が生じることも。そういう部分にこそ焦点を当てて、プロジェクションをはじめとしたこころの働きについての知識を通して問題と向き合うような視点も読んでみたかった。
 
 とはいえ、やはり自分の推し活を振り返るうえでプロジェクションという概念によって理解が進んだり、新たな知見を得たりすることは多かった。
 多分私はこういう問題を掘り下げれば掘り下げるほど出てくる「自己」ばっかりの世界が嫌で嫌でたまらないからこそ推し活をしているのだが、推しを見つめれば見つめるほどそこに見えるのは推し自身ではなくあれほど嫌だった自己なんだよな……推し自身の存在に触れることができる日は来るのだろうか。

余談

 推し文化を通して認知科学を紹介する本書と逆に、現代思想の視点から「オタク系文化」を分析しているのが『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(東浩紀、講談社現代新書)。ちなみにこちらは男性のオタク系コンテンツへの言及が多い。
 刊行からかなり年月が経っているので古びてしまった記述もあるのだが、物語消費(@大塚英志)からデータベース消費への移行とか、データベースとシミュラークル(@ボードリヤール)の関係とか、本書と併せて読むとお互いを補完できそうというか、理解が深まる部分があるかもしれない。
 あと、オタク文化の隆盛というのはそもそも消費社会の発達が前提になってるんだよなあという当たり前のことを再認識して、万年金欠の私はしょんぼり。

 その他にも、認知科学という分野の幅広さゆえ、これまで紹介したどの本とも共通項が存在している。また出たよアブダクション、みたいな。

ちなみに

 私の感じたモヤモヤは単なる思い過ごしなのかなあ、あるいは少数派なのかなあと思ってAmazonのレビューを読んでみたら、見事に一人ひとり全然違う感想だった。まさにこれって自分の中の「推しとは何か」「認知科学とは何か」をこの本に投射した結果なんじゃないかと思う。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?