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「教育に力を入れる目的」 高齢出産だった母の想い

子育てに関する記事を検索すれば、「知育」「モンテッソーリ教育」など教育にまつわる情報が沢山出てきて、きっと本を読み漁らなくてもある程度の情報は目についているだろうし、「自己肯定感を高めることが重要なんだなぁ」という知識はあると思う。

私は2歳と0歳の娘がいる。とても平凡な共働きサラリーマンだけど、万が一資産家になったとしても、私たちは娘たちに資産を残すつもりはない。もちろん学生の間に必要な学費や生活費は貯めておくつもりだし、いつ死ぬかはわからないのだけれども。

「教育に力を入れる」というと良い大学に入って、稼ぎの良い会社に就職するといった道を想像する人が多いのではないだろうか。良い大学に入った人も、難関をくぐり抜けて就職した人も本当にすごいと思うし、尊敬もしている。だが、私が教育に力を入れる「目的」ではないのだ。

私の母は42歳で私を産んだ。そして当時父は51歳だった。今ではたまに聞く話だが、当時はとても珍しかった。美意識はかなり高かった母だが、それでも小学生の頃はおばあちゃんに間違えられることもあった。特に凹むでもなく笑っていたけれど、こちらとしては少々気まずかったのを覚えている。そんな母は塾の先生にこう言っていた。

「年をとってからの子どもだから、いつまで手伝ってあげれるかわかりません。死んだ後お金を残してもそのお金で一生食べていけるわけではありません。私たちが残してあげれるのは今教育を受けさせてあげることだけです。」と。

その言葉通り、母は塾でもスキー教室でもやりたいことは何でもさせてくれ、全力でバックアップしてくれた。(父はお金のバックアップはしてくれたが決定権は母が持っていた)そんな私は大学までついている私立の小学校に入った。その小学校に入りたいと言い出したのは私だったのだけど、公立の何倍もの学費がかかる小学校への入学をよく許可してくれたものだ。両親は元々小学校から私立に入れるという考えはなかったようだが、将来、家柄を気にする人と私が結婚することになっても、「いいところのお嬢様」という肩書きは無いよりあった方がいいと考えたらしい。

6歳にしてあらゆるリスクヘッジを受けたものだ。

結論として、父(81歳)も母(72歳)もまだ元気だし、私が結婚した相手は家柄を気にするような相手ではなかった。そしてせっかくのエスカレーター式の学校なのに高校は他へ行くことになるのだが。

それでも今になって母の言葉がよくわかる。

年齢に限らず、親がいつ死ぬかわからない。いつまで子どもを養えるかもわからない。だからこそ、社会で生きていく力をつけてほしい。それはいわゆる「自己肯定感を高めて生きやすい考え方持つこと」かもしれないし、「良い大学に入ってお金を稼ぐ糸口を見つけること」かもしれないし、「小さい頃から始めた習い事が将来の仕事に結びつくこと」かもしれない。どれが良い、悪いじゃなくてその子の個性によっても違うだろうし、親の考え方次第だと思う。

例えば幼少期の英語教育については色々な見解があるけれど、何のために学んでほしいと思っているのだろう。仕事で苦労しないように英語を学ばせてあげたいのか、その子が英語が好きだから伸ばしてあげたいのか、将来アメリカに移住するつもりだから発音もネイティブに劣らないようにしてあげたいと思うのか。それによって回答は全然違うものになってくるのでは無いだろうか。

将来世の中がどうなっているか想像もつかないけれども、私は自分の子供たちをしっかり見て個性を伸ばし、自分で生きていく力、考え方をつけてあげたい。どんなに悩んだり、苦しい状況が訪れても自分でしっかり考えて立ち直れる強さ。やりたいことを見つけた時、それを実現できるしなやかさ。好きなことを好きと体現できる前向きさ。たとえお金や物が無くなっても、自分が身につけたものは減らないのだから。

本人たちの楽しいという気持ちに共鳴する必要なツールは何でも取り入れていきたいとも思う。それが知育でも、絵本でも外遊びでも音楽でも。目的さえ見失わなければそれでいい。

教育にあたりお金も沢山かけてもらったし、かけれるならその経験は素晴らしいものだと思う。だけど今は検索すればいくらでも子供を伸ばすアイディアやヒントが沢山出てくる。自分次第でいくらでも子供の可能性を伸ばしてあげられるのだと身が引き締まる。

教育は一生物の財産だと私は思う。

このnoteは親としてまだスタートラインに立ったばかりの私の決意表明だ。

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