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ページの外に在る生活を想う

創作物というのは、何かを伝えるために少しだけ現実よりオーバーにしていることが多い。それに触れて、現実ではささやかで気づけなかった大事なことに気づかされることが往々にしてある。
漫画を読むのも映画を見るのも、現実世界で人と付き合うのもなんだか同じことの様な気がする。僕は、自分からは見えない相手のストーリーをいつだって大事にしていきたい。

☆☆☆

「サイケまたしても」という漫画を読んだのだ。

昨年まで少年サンデーに連載されていた漫画で、僕が思春期の頃「うえきの法則」という漫画を連載していた福地翼先生の作品だ。
男二人兄弟だとシンプルに読める漫画の数は2倍で、僕は当時ジャンプとサンデーをそれぞれ兄と買い、お互い読み終わると相手に貸していた。

うえきの法則と金色のガッシュはとても大好きな作品で宝物だ。なんというか、サンデーの漫画はジャンプより少し物語の余白だとかサイドストーリーが多くある気がして、僕は何となくそちらの方が好みだったりする。基本主人公より3番目くらいのキャラクターがなぜだかいつも好きだし。

うえきの法則もサイケまたしてもも、共にいわゆる能力者バトルものなのだけど、福地先生は能力の設定がとてもうまい。主人公を一見微妙な能力にしてきて、「創意工夫」と「仲間との協力」を不可欠にストーリーを展開していく。

うえきの法則は「〇〇を〇〇に変える力」という縛りが全能力者にある中で、主人公は「ゴミを木に変える力」という一見役立たなそうな能力だし、サイケまたしてもは縛りのない能力設定の中で、「街の池に落ちて死ぬと一日だけ時を巻き戻せる」という能力設定だ。

相手を簡単に殺せる様な能力を持ち合わせてる敵達と戦う中で、サイケに至っては敵を倒す力は皆無といっていい能力設定になっている。
しかし、能力バトルもので「時を戻す」力自体はとてつもなく強力だ。ジョジョではラスボスが持ってることすらある能力なわけで、作品中でも危険な能力と称されるくらいのものではある。

それでもやっぱりこの能力設定は素晴らしくて、チートの代償がある。直接相手を倒す力があるわけではない少年のサイケが相手に勝つためには、相手の行動を分析して失敗したら時を戻す必要がある。そのために、毎回何度も何度も死ななければいけないのだ。自ら、命を捨て続けてはじめて能力を発揮することが出来るわけだ。相当、まともじゃない代償だ。

そんなチートだけど代償を払い続けて戦い続けるサイケは、必ずしも強くある主人公としては描かれていない。弱さが垣間見えたり、自分の中の咎を見て見ぬふりをしていたり。当たり前に右往左往して生きる様子が戦いの合間に描かれ続けている。

最終話でサイケが自らが得た結論であり気づきを話すシーンがあるのだけど、それは正に彼がそうして右往左往する中で得た彼なりの結論だった。とても美しく、誰もにとって正しい結論なわけではない。彼の生きなければいけなかった環境において、彼が前を向き続けた結果辿り着いた、彼の人生にとっての結論だった。一人の人間の成長を描いた作品だった。

これが、主人公以外にも当たり前に描かれているのだ。全員にそれぞれの人生があって、ちゃんと毎日寝て起きて生活をしていて、人生がある。僕が彼らを見るのはコマの中に出てくる時だけだが、それが学校なら彼ら全員に登校中の出来事はあったわけだ。廊下の方で寝てる名前もない生徒は昨日何か夜更かしする理由があってそうなっているわけだ。僕が見るのはその一瞬だとしても、それは彼らの人生を一部切り取ってのぞき見しているに過ぎない。全てのキャラクターに命があり、連続した人生を送らせているからこそ、切り取って見ているだけの僕にも届くものがある素晴らしい作品になっているのだと思う。

そして何故それが響くかって、現実も基本的には同じなのだ。

☆☆☆

相手のことをわかりたいな知りたいなと思った時、色々なコミュニケーションの取り方がある。僕の場合は当然まず話す。それもなるべく二人で。そしてなぜを繰り返す。なぜ今のあなたがそうなのか、どんな人生を過ごしてきたのか、ストーリーを聞くことが多い。厳密に言うと聞くわけではないかもしれない。自分のそういう話をひたすらすることが多い。
相手のストーリーを知りたいのはやまやまだが、知るのは相手が話そうと思った時でいい、と思ってるからだ。
割と感覚で人付き合いをしている僕にとって、わかりたいと思った相手は既にこちらとしては好きな人なので、相手が投げたいボールを投げたい時に投げてくれと思って接することが多い。こっちはもう捕る気しかないのだ。

そうやって人と話していていつも思うのは、今自分の目の前で相手がくれる言葉や反応は、全部僕がいなかった時間から生まれたものだなあ、ということだ。
例え同じ言葉だったとしても誰が言うかで意味合いが違ってくるのもこれと同じ理由だと思う。人は瞬間の言葉に嘘をつくことはできても、人生に、連続した時間の流れに嘘をつくことはできない。人から言葉を受け取ってその時に浮かぶイメージは、その言葉のみから生じているわけではなく、そこに託してもらったその人の人生から浮かんでいるのだ。そこを想う力を僕は失いたくない。

☆☆☆

僕は、僕にとって自分ごとにできることしかなるべく人に言わない様にしている。なんだか嘘をついてる気分になってしまうからだ。それは文を書いていても同じで、僕は見えない誰かに届けたくて何かを書くことは自分には無理だなと思っている。こうやって書いている時、僕は絶対に誰か具体的な人のことを考えている。「これは大好きな親友と楽しく話せるのでは?」とか、「高校の時にこんな話があの先生とできたらな」とか。それが近い人であれ遠い人であれ、僕は必ず具体的な誰かを思い浮かべながら文を書いている。
(更に言えば、僕はその誰かが「自分自身」であることが非常に多い。この文章もそうなのだけど、自分の整理だとか表現に刺激された産まれた思想を忘れたくないからだとか、僕は自分のために文を書いていることが殆どだと思う。)

そして思えば人から言われて心が動くときは、その人たちもまた自分ごととして言葉を言ってくれてる時なのだ。

過去を悔やむ時に未来を祝福してくれた友人は、あの日に戻れればと思ったことのある人だ。日常のささやかな幸せを幸せいっぱいに書いてくれる人は、きっとその幸せに気づけなくなったことがあった人なのだろう。僕より僕の感受性を大事にしてくれた人は、自分自身それを守れなくなりそうになったことのある人だ。皆、自分の言葉を僕にくれているのだ。

そういうのは、わかるのだ。例えそうであった事実を僕が知らなくても、確信をもって「あったんだろうな」というのは伝わってくるものなのだ。
言葉は力を持つが、それは必ずしも字の並びだけが持つわけではない。言葉には、力が宿るのだ。その人の心が宿った時、言葉は人にちゃんと届く様になるのだ。

☆☆☆

「自分がいない相手の時間を想う」ことの出来る人をとても尊敬している。

接客のプロだなあと思う友人は、日常の雑談はあまり覚えていなくても、相手の生活リズムはすぐに覚える。何かにつけお祝いしてくれる際は、必ず僕がいつそれを使うと良いのかまで想像して贈り物をくれる。

人に対する言葉を絶対に軽はずみに使わない友人がいる。人に何かを伝えようとする時、地に足をつけて必ず自分の色をつけて言葉をくれる。お互いに地元でもなんでもない名古屋で会った時にも、忙しいのは自分なのにその日そこで会うまでの僕の時間の流れをとても気にしていたのを覚えている。

正直僕はあまりそういうことが得意ではないのだ。だからこそ「知って」おきたがるのだろうし、そんな友人達にいつも尊敬の念を抱くのだろう。
でも、言葉にするかしないかはほんとはどうでもいいのだ。
ちゃんと、感覚でわかるのだから、その感覚を大事にしていればいいだけなのだ。

もし仮に少し目の前のあなたに違和感を感じる瞬間があったとしても、僕の見ているページの外で動いていたあなたに想いを馳せて向き合う。
忘れずにそれが出来るような、そんな人にもっともっとなっていきたいなあと思うばかりだ。

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