余白の魅力

 人は余白に幻想を見る。だから、真っ白なものは汚したくない。

 ところが誤って手を付けたが最後、そこには得てして思ったものとはかけ離れたフランケンシュタインが出来上がる。だから私は手を付けるのが恐い。かといってそれを恐れると、今度は流れるままに時は過ぎて、それはそれでやっぱり不完全なものが出来上がる。 

 未来というのもその類いで、これほど輝かしく見えるものはない。卑屈になって絶望したつもりで、それでも生き続けるのは根底ではそれを輝かしいと思う証拠である。そういう点で子どもは全く余白まみれで、大人は彼らを通してその過ぎ去ったことに向き合う。しかし、在りし日のままではなくやはり美化されて映る。それが余白の為す業である。実態は小さな大人であるが、彼らは実に子供らしい武器を持つ。 

 私は完璧主義だ。他の人はどうなのだろう。中途半端に出来上がってしまったものと真っ向から向き合うことができるのだろうか。もし竜の絵を描くのなら、思うとおりにその瞳まで隅々描きたい。それでも書いたが最後、そこにはやっぱりいびつな絵が待っている。 

 その点、余白は素晴らしい。事実の中に混じったそれは余白を余白たらしめる。人の素性、相手の感情、「もしもあのときこうしていれば」、文字通り絵の余白から文章の行間まで、世の中には意図せず余白が生まれ続ける。だからあやふやなものはあやふやなままでいい。ここには画竜点睛も必要ない、瞳のない竜の絵を描けば各人が思う理想の瞳をそこに見る。余白は各人の見たい夢を魅せる、まさに魔性の鏡である。 

 ときに私はさびれた街に妙な哀愁を感じたりする。これについて、その廃れた惨状を余白として、そこからいくつか街の景色に残った手がかりを拾って過去の幻想を一時的に見る。しかしそれはやっぱり夢なわけで、ふと目が覚めて改めてその廃れた様を見たときのその隔たりに、えもいえぬ無力感を感じているという次第ではないかと思う。 

 だから、必要なのはその外枠を埋めてやることだけではないかと思っていた。が、はっきりこう決まるとこれも気に入らないのだ。なによりここをゴールにするのは卑怯だ。余白が美しく見えるのは積み重なった偶然のためであって、この偶然を必然的に作り出すことはできない。もしくはできたとしてもやはり余白の主旨は丸ごと逃げていく気がする。 

 だからあまり考えずに生きようと思う。人生というのはその足跡に見るものであって、歩む前から判断のつく代物ではないからである。そういった偶然の先に生まれる余白こそ美しいはずだから。 

 ところが、それでもやり直したいとか完璧にこなしたいと願う。個人の思う程度こそあれ、結論から言えばそれは多分不可能なことだ。だからこそ、その完璧主義がこの余白を妙に愛おしく見せるわけで(以下、古畑任三郎のテーマ)。

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