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米村さんと行く!大塚国際美術館第二弾ほんとのほんとに最終章!

皆様こんにちは。
徳島大学細胞生物学分野・ヨネケン秘書のあべみょんです。

ねぇ・・・明日って休みらしいよ!!!(笑)

今朝、息子たちと
「ねぇ、ちょっと待って!明日って休みじゃない?」

3人で見合わせて いいぇ~~~~~ぃ♪ってなって幸せでした(笑)
寒い時期の早起きってつらいもの。。。

ということで3連休だっていうから、そりゃぁ気合の入った投稿をしなきゃねってことで!満を持してのアレ出しちゃいましょう。

イクゾー!!!!!

米村さんと行く 大塚国際美術館第二弾 最終章


ちなみに第一弾はこちら。

好評につき第二弾だ!!!

と思ったら、第二弾に続きがあったぞーと、慌てて第二弾【後編】

と思ったらもう一個出てきたぞーってことで、今回が第二弾の【最終章】

いかに行き当たりばったりか、てのがよーくわかりますね!(^^♪
今日も勝手に山田五郎さんのYouTube「オトナの教養講座」とコラボしつつお送りしましょう。


言わずと知れた、徳島県が誇る 大塚国際美術館
を訪れた米村さんによる解説です~

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↑ヴァン ダイク
狩猟場のチャールズ1世  1635年
国王の肖像画にもシチュエーションを作り、正面でなく横をむかせている。

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↑フェルメール
ヴァージナルの前に立つ女  1670年
オランダのフェルメールも43歳でなくなっており、作品も35点前後。個人所蔵のものも多く、多くの人には知られず、18世期には評価も下がっていたらしい。バロックのキアロスクーロを示しているが、劇的な光と暗黒でなく、穏やかな光と陰というのが特徴のようですね。

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↑フェルメール 牛乳を注ぐ女 1670年
パンの凸凹感がなかなかすごいのですが、光の点を描き込んでいるかららしい。フェルメールはカメラオブスクラという針穴写真機を風景描画の参考にしたといいます。遠近法が完璧なものになるので、下絵の作成に利用できたのでしょう。もちろん、フィルムはないので、紙を当てて映る景色をなぞったということになります。私のような生物学者にとって面白いのは、そのような光学機器を利用したフェルメールと初期の顕微鏡で微生物や精子の発見などを行ったレーウェンフックとが同郷であり、フェルメールの死後、レーウェンフックが遺産管財人となっているということです。

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↑フェルメール 真珠の耳飾りの少女 1665年
これは暗黒が明瞭なキアロスクーロではありますが、どこまでも柔らかく、劇的なことは狙っていません。日本人には受けるのですが、ヨーロッパでは同時代の似たような絵を描く作家の中に埋没して、美術館ではあまり人が集まらないようです。


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↑シャルダン 食前の祈り 1740 年
比較的裕福な家庭の食事。手前の子供に目が注がれているのは、食前の祈りは最年少の子供がすべきことだったから。「上手に言いなさいね」「間違えたわよ」などと聞こえてきそう。

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↑フラゴナール ぶらんこ  1767年
ロココは、バロックの後の曲線を多用した優美さが特徴のようだが、おそらくそれは絵画というより、建築、家具などに強く見られるのだろう。絵画ではバロックの劇的なモチーフでなくより日常のもの、特に宮廷や貴族の華美で退廃的でもある習慣を示すことも多かったようです。この絵は、ある男爵が愛人の絵を描くように注文したそうです。愛人の方は、ブランコにのり、偶然を装ってスカートの中を見せつけ、靴まで飛ばして拾いにいかせようとしています。大塚国際美術館の説明文ではそれを見ているのが注文主の男爵ということですが、山田五郎さんはブランコを動かしている老人の方が男爵で、若い男を誘惑させて楽しんでいると考えています。いずれにせよ、フランス革命前夜の貴族の日常を示しています。このような貴族の享楽的な生活の恩恵をたっぷり受けていたためか、革命後の晩年は失意と貧困のうちに亡くなったそうです。


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↑ライト 空気ポンプの実験 1768年
イギリスの作家です。中央のガラス内部の空気を抜こうとしているようです。中の鳥は空気がなくなってきて飛べない状態なのでしょう(飛ぶ以前に大問題ですが)。技法はバロックのキアロスクーロで、宗教画のような劇的な場面のような描きぶりですが、実際には産業革命中のイギリスの科学的発展をモチーフに、バロック調にまとめてみました、というようなエスプリがあるようです。

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↑ダヴィッド  レカミエ夫人の肖像 1800年
裕福な銀行家の妻の肖像画で、当時は古代風の衣装で横たわるのが流行だったそうです。この時はロココも終わり、新古典主義。ギリシャ、ローマの荘重な様式が好まれたということです。とはいえ、キアロスクーロは明瞭に見られますから、単にそういう表現をすることが良いということではなく、技法の選択肢の一つになったということではないかと思います。アルプス越えのナポレオンの騎乗姿を描いたのもダヴィッドです。その後ナポレオンによって主席画家に任命されています。

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↑アングル  グランド・オダリスク  1814 年
オダリスクはトルコの後宮の女ということです。このやけに長い背中、骨盤も長過ぎ、お尻がほとんどない、など、精密なスケッチの名手であるアングルがなぜこのようなちょっとありえない身体を大真面目に描いたのかが注目されています。実際に近くで見るとわかるのですが、肌の描写が普通ではありません。乳白色の陶器のような緻密さ滑らかさ、それでいて当然、人としての弾力があるのでしょう。どうもアングルはそれが好きでたまらないらしく、自分の美意識を主張しています。それを表現するための熱量の入り方が尋常ではありません。


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↑ドラクロア 民衆を導く自由の女神 1830年
ドラクロアはアングルとは真っ向から対立。ロマン主義という個人の感受性や主観に重きを置いた運動ということです。古典主義なら安定した神話、宗教を題材とする形を取りがちですが、ロマン主義だと今の個人の気持ち、民族意識などが出てきます。この絵の女性が女神であるというのは、おっぱい丸出しということで、普通の人間ではなく、神なのだ(神話の絵でもそうなっている)ということです。そういう神を描いてくれという注文も当然一定数あったようです。


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↑ボヌール  ニヴェルネ地方の耕作 1849年
牛の描写が本当に写真みたいで圧倒されます。

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↑ゴヤ  カルロス4世の家族 1800年
スペインの私でも知っている大画家ですが、タペストリー工場の下絵描きに十数年間携わり、その中で実力を認められて40歳で王室の画家となります。その後に病気により聴力を失いますが、ゴヤの有名な絵の多くはその後の作成されています。ここではスペイン国王カルロス4世の家族を描いていて、非常に写実的で、ロココの華美から脱しているロマン主義ということです。

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↑ゴヤ アルバ公爵夫人 1797年
ファッション雑誌の表紙のような構図、色使い。写真はありませんが、当時の宰相ドゴイが依頼した「裸のマハ」「着衣のマハ」も有名。着衣がある以上、マハを神とするわけにもいかず、意識して人間の裸体を描くということにゴヤは挑戦したということです。

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↑ゴヤ チンチョン伯爵夫人 1800年
国王カルロス4世の従妹にあたる人で懐妊の記念の肖像画です。ゴヤの筆は宮廷画家として、またロマン主義の先鋒として走っていました。

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↑ゴヤ 1808年5月3日:プリンシペ・ピオ丘での銃殺 1814年
一見同じ作家の作品とは思われないこの作品もゴヤの代表作。自分の主観、感情を写実という技法から発露させています。筆の跡がわかる荒さがあり、写実の完成度よりは印象、迫力、同時性を大切にしたのでしょう。今で言う戦場カメラマン的です。ナポレオンがスペインの支配に乗り出し、マドリード市民が暴動を起こすも、フランス軍はそれを鎮圧、反乱首謀者が銃殺されている様子です。カルロス4世の宮廷画家だったゴヤですが、ナポレオンの兄がスペインの王位につき、そのフランス軍の行状も目撃します。これを描くことができたのはナポレオンの凋落直後の1814年でした。

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↑ゴヤ 1808年5月2日:エジプト人親衛隊との戦闘 1814年
エジプト人親衛隊とは、当時ナポレオンに破れていたエジプト人がフランス軍にも兵として参加させられていたためでしょう。戦闘の場面は、これまでは神や英雄の登場する神話や史実を表していましたが、ここで特に英雄がいるわけではない民衆を題材とするようになってきました。

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↑ゴヤ 我が子を食らうサトゥルヌス 1820年
カルロス4世の長男、フェルナンド7世はカルロス4世の追放後、王位につきますが、すぎに退位させられ、スペイン王としてナポレオンの兄が即位します。1814年にスペイン独立戦争はナポレオンの凋落とともにスペインの勝ちとなり、結局その間、フランスに囚われていたフェルナンド7世が復位することになります。独立戦争をしていたとはいえ、ナポレオンは民主的な社会へと確実にスペインを動かしていました。フェルナンド7世は憲法を拒否、絶対王政に回帰して、反対するものに容赦ありませんでした。宮廷画家としてスペイン王室に恩義はあるものの、今の王よりはナポレオンの方が政治としては悪くなかったのでは?ゴヤは自分にも厄災が降りかかることも考え、マドリード郊外に家を購入、隠遁し、そこで「黒い絵」を称される十数枚の暗い主題、色調の絵を残しています。サトゥルヌスは神話の登場人物で、父親を鎌で切ったため、自分も子供に殺されると予言を受け、自分の子供が生まれるたびに食べたと言う話があります。最終的には石を代わりに食べさせられ、その次に生まれた子は無事に育ち、神々の中の神ゼウスになったとか。スペインを見るに、今は次々に生まれる子供が王によって殺されている状態でそれに耐えねばならない時代なのかという思いでしょうか。スペインはヨーロッパでは珍しく、政治的に不安定な状態が長く続きました。第二次世界大戦中は結局参戦しなかったため、フランコ独裁が戦後まで続き、民主憲法ができたのが1978年、EC (今のEU)加盟も1986年です。同じ民族内での虐殺などが起こるという( アーネストヘミングウェイの「誰が為に鐘は鳴る」で状況がよくわかります)、かなり不思議な特別さを感じます。

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↑ゴヤ ボルドーのミルク売り娘 1827年
ゴヤは自由主義者弾圧を避ける為、1824年にフランスのボルドーに亡命、この絵は81歳の時のもの。色調は暗いですが、穏やかさが出ています。亡くなる前年です。


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↑ターナー ヴァティカンから眺めたローマ風景 1820年
スペインのゴヤが不安を抱える中、ナポレオンには一度も屈しなかったイギリスではターナーが写実的なロマン主義の絵を描いていた。これはラファエッロがバチカンの開廊装飾の構想をめぐらしているところらしい。中央の小さい丸い絵はラファエッロの小椅子の聖母であることがわかります

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↑ターナー 戦艦テメレール 1838年
ナポレオンのイギリス上陸の野望を粉砕したトラファルガー海戦で活躍した戦艦。往時の面影はないと感傷にふけっているが、勝利した方が抱く心境ですね。画家が頼まれたお題を描くのではなく、アートとして自らを表現することがどんどん増えてきたようです。

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↑ターナー 雨、蒸気、速力:グレート・ウエスタン鉄道  1844年
産業革命の象徴の一つ蒸気機関車。その速さはこれまでの巨匠も見たことのない全く新しい画題です。

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↑コンスタブル  麦畑 1826年
イギリスの画家ですが、イギリスの風景をよく描き残しているそうです(ターナーは必ずしもイギリスに拘っていない)。この時代のイギリス国内の風景画はあるいは日本では東海道五十三次、富嶽百景などの浮世絵に相当する、心の風景になっているのかもしれません。

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↑ミレー 落穂拾い  1857年
農民画家として知られるミレーです。落穂を拾うと言うのは収穫の後に落ちているわずかの小麦の穂を拾うということです。宗教的に、寡婦などが落穂を拾うのを許すのは良いほどこしであると言う話があり、実際に当時も農婦と子供のみに制限付きで許されていたそうです。歴史画家のもとで学んだミレーは宗教画を基本に考えていたのかもしれません。しかし、当時のフランスは農民、労働者階級が革命を起こし共和制を敷く、また帝政に戻るなど激しい変動があり、共和制の頃は農民が主体となっているミレーの絵が極めて高い評価を与えられ、政治色的主張が強いとレッテルを張られてしまうこともありました。

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↑ミレー 晩鐘 1857年
フランスのそのあたりの状況には関わらないアメリカでは純粋に絵として高く評価され、農民の暮らしということでアメリカからの注文で描いたもの。農民の労働と教会の晩鐘が聞こえての祈り。宗教改革についても書いてきましたが、フランスでは改革派はユグノーと呼ばれていました。太陽王ルイ14世の時に、プロテスタントは非合法となりユグノーは国外に散っていったそうです。農民の宗教はカトリックです。


はい!!!!

以上で今度こそ本当に本当に、第二弾は完結です~(^^♪

お好きな作品はありましたでしょうか?


大塚国際美術館、とんでもなく広い大きい美術館でありまして、米村さんは3回行かなきゃ回りきらない!と言っていました。(奥様は2回で回っちゃったからもういいそうです(笑))


何度も自慢しておりますが(笑)
徳島大学の福利厚生で大塚国際美術館チケット割安になるときがありまして、そこでゲットして残りを見て回ろう!!!という作戦のようです(^^♪

第三弾、乞うご期待!!!
私も今年は絶対チケット買って、一人でじっくり堪能するぞ~~~♪


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