見出し画像

ピアソラの復刻CD~実は売れっ子だったピアソラ?

アストル・ピアソラ生誕100年だった2021年は、これまで入手困難だったものも含む多くのアルバムが復刻発売されました。

ピアソラの権利関係はなかなか複雑で、本人の没後も多くの雑多な「ベスト版」が発売され、系統だって聴くことがかえって難しい状態でした。
そんな中、ピアソラが生前にリリースしたアルバムが当時の形で復刻されたことで、その時代ごとのピアソラの方向性や意図が捉えやすくなったの大変意義あることです。

80年代の『タンゴ・ゼロ・アワー』や『ラ・カモーラ』は確かに名盤で録音状態もいいのですが、そこに至る60年代、70年代のアルバムをじっくり聴くことでアストル・ピアソラという稀代の音楽家の真の姿がさらにはっきりと理解できるでしょう。

もちろんYouTube等で音源は聞けてしまう時代ですが、アルバムという形はその音楽家の思想が色濃く反映されているので、まとめて聞くことにはやはり大きな意味があります。
また復刻版アルバムには斎藤 充正氏・西村 秀人氏といったタンゴ研究の第一人者による解説が載っており、資料としても読みごたえがあります。

今回は私が入手した復刻CDを中心に、ピアソラの音楽の変遷を簡単に追ってみたいと思います。


『シンフォニア・デ・タンゴ』

ピアソラが1954年にパリに留学し、高名な音楽教師ナディア・ブーランジェの指導を受けたことは有名ですが、その留学が終わりに差し掛かった1955年にフランスの3つのレーベルと契約して自作を中心としたレコードを収録しています。
実はピアソラの数年前の作品「プレパレンセ」がフランスでちょとしたブームとなっており、ある程度知名度があったことがこれを後押ししたようです。

この『シンフォニア・デ・タンゴ』がピアソラの記念すべきファースト・アルバムという事になりますが、パリの演奏家を中心に結成された弦楽オーケストラ(弦楽器とピアノ)とピアソラのバンドネオンという独特の編成で演奏されています。
留学中の作品ということもあってか、後の作品に比べるとむしろクラシックの室内楽的な印象が強いのがユニーク。
ブーランジェの下で自分のアイデンティティがタンゴにあることを再認識したピアソラの喜びも感じられるような瑞々しさがあります。

『ピアソラか否か』
『ピアソラ、ピアソラを弾く』

1960年にピアソラは以降の活動形態の主軸となる五重奏団(キンテート)を結成。
ピアソラがいよいよ時代の流れに乗ろうとしていた激動の時期でした。
この頃のピアソラは音楽活動のかたわら、テレビやラジオ等のメディアにも頻繁に出演し、新時代のアルゼンチン文化を担う旗手としてクローズアップされるようになります。
一般的にオリジナル作品を演奏するイメージが強いピアソラですが、実際はこの頃までは過去のタンゴの編曲作品の比重が大きく、1961年に発売された五重奏団の1stアルバム『ピアソラか否か』もほとんどが編曲ものでした。

それに対して続編の『ピアソラ、ピアソラを弾く』はオリジナル作品が中心でしたが、レコード会社やピアソラ自身の予想に反してこちらの方がよく売れたようです。

これに自信をつけたピアソラは次第にオリジナル作品に重点を置くようになり、その後の1965年の『ニューヨークのアストル・ピアソラ』ではいよいよ全編オリジナル作品のアルバムとなりました。

このアルバムは政府の依頼でアルゼンチン文化を紹介する使節団の一員としてニューヨーク公演を成功させた記念としてリリースされたもの。
1960年代のピアソラがアルゼンチン文化の新しい顔役となっていた事を裏付ける作品です。

『タンゴの歴史1.2』

ピアソラの「タンゴの歴史」といえばフルート×ギターのデュオが有名ですが、実は同じタイトルのアルバムを1967年に2枚出しています。

過去のタンゴをピアソラによる独創的な編曲で収録したもので、本人のバンドネオン+大編成オーケストラで演奏されています。
「この原曲をこんな風にアレンジするとは!?」というピアソラの職人芸を味わえるオリジナル作品とはまた違った楽しみ方ができるアルバム。
ピアソラ以外のタンゴが食わず嫌いな人にも、ある種のタンゴ入門編になるかもしれません。

実はこの時期のピアソラは結婚生活の破綻から重度のスランプに陥っており、新作が全く書けない状態でした。
その間の苦肉の策として浮上した企画だったようですが、スランプとはいえ編曲や演奏・収録などは問題なくできてしまうあたり、彼にとって作曲という行為がいかに繊細なバランスで行うものだったのかが想像できます。

その後、ピアソラは詩人のオラシオ・フェレールと共作した1968年の小オペラ「ブエノスアイレスのマリア」でスランプを脱却、1969年に同じくフェレールと世に送り出した「ロコへのバラード」は空前の大ヒットとなり、一躍時の人となります。

この1969年末からの半年間のレジーナ劇場でのロングラン・リサイタルの模様は『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ』としてタンゴ初のライブ録音が行われていますが、ピアソラと前期五重奏団の一つの頂点ともいえる名盤となっています。

『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽1.2』

1971~72年の九重奏団(コンフント9)は、それまでの集大成となった重要な楽団でした。
「ロコへのバラード」の歴史的な大ヒットによって、いまや「ポピュラー音楽の人気作曲家」と言えるほどの知名度を持つようになったピアソラが満を持して結成したコンフント9は、1年間ブエノスアイレス市専属の楽団という破格の待遇を受けることになります。
その結果、予算を気にせず納得のいく音楽を追求できたのがこのコンフント9でした。
自分の過去の業績はあまりかえりみなかったピアソラですが、この楽団に関しては「理想的なサウンドだった」と満足していたようです。
従来のキンテートに第2バイオリン、ヴィオラ、チェロ、パーカッションを追加した九重奏という編成は、キンテートに弦楽四重奏を合体させたような華やかなサウンドと言えるでしょう。

コンフント9としてリリースした2枚の『ブエノスアイレスの現代ポピュラー音楽』はこれまでの作品に比べても長大化した曲も多く、「AA印の悲しみ」「バルダリート」「スム」といった名曲やクラシック音楽を意識した作品など意欲作ぞろいで聴きごたえのあるアルバムです。

「理解されなかった天才」ではない

ピアソラの紹介文で「あまりにも前衛的な作風のためアルゼンチンでは受け入れられなかった」「生前はあまり評価されず晩年から死後に評価が高まった」とされていることがありますが、こういったアルバム発売の流れを追ってみてもその解説が甚だ不正確なことが分かります。
「タンゴの破壊者」と激しい批判を受けたという点ばかりがクローズアップされて、熱烈なピアソラ・ファン(ピアソリスタ)も多かったこと、アルゼンチン国内での演奏活動も非常に多かったこと、彼の作品を取り上げるタンゴ楽団も当時からあったこと等が抜け落ちているのはアンフェアでしょう。

特に1960年代からは毎年のようにレコードが発売されています。
「アルゼンチンでは評価されていない」音楽家のレコードがコンスタントにリリースされることはさすがにありえないでしょう。
公的機関からの要請による公演も数多く行っていることから、アンチが多かったにしても、当時のピアソラが「アルゼンチン文化の重要な担い手」とみなされていたことも明らかです。

確かに「多忙な売れっ子ミュージシャン」よりも「周囲の不理解と戦った不遇の天才」というキャッチフレーズの方がインパクトがあるでしょう。
しかし過剰にピアソラの「前衛性」や「保守的なタンゴとの対立」「孤高の人」というイメージを先行させると、彼の音楽の本質を見失ってしまいます。
あらためて各年代ごとのピアソラの音楽を聞き直すことから、本当の意味でのピアソラの再評価は始まるのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!