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【連作】熱狂的女子高生 1

「私、女子高生ってイキモノが嫌いなの」
 乾ききった声で律さんが言う。女子高生の自分に向かって。取りつく島もない。そんな言葉が浮かぶ程に、私との境界にきっちりと張り巡らされた立入禁止のテープが見える。
 でもね、律さん。今までの何物でもない関係に比べたら、意識してもらえたっていうだけでも大進歩すぎて喜んでるんですよ、私。
 熱帯魚専門店で働く律さんに出会ってからというもの、私は彼女に近づきたくて仕方がなかった。何故なら彼女はただそこに居たというだけで、自分のカタチすらどうでもよくなっていた私に強烈な一撃を食らわせたのだから。
 昨日と今日の違いもわからず、さらにはわかりたいとも思えないなか、そんな日々を望んでいないことだけははっきりしていた。けれどそれを直視したが最後、かろうじて回っている歯車は、きっと異物を挟み込んだように動きを止めてしまう。
 そんな確信にも似た恐れが私という個を曖昧にさせ、惰性で日々をこなせるモノに変えてしまっていた。
 どこにでも行けることを忘れてしまったような両足が、学校と家を往復する以外の場所へ向いたのは偶然だった。田舎寄りの中都市とはいえ、駅前ともなればそれなりに大小様々な店が軒を連ねていたものだが、年々空き店舗が増えていくばかりの今では寂れ具合に拍車がかかっている。
 天気予報で、例年より早めの梅雨明けが囁かれる六月の中旬。日が落ちるのも随分遅くなった金曜の夕刻に、歯抜け状態の店舗の隙間から垣間見えた『熱帯魚』の文字に意識が吸い寄せられていく。
 良く言えばシンプルイズベストな青単色の電光看板の年季の入り具合を見るに、きっと以前からあった店なのだと思う。
 この町へ引っ越してきたのは、小学二年になる年の春だった。駅前は進む土地開発と住民の増加から、記憶にある中でも一番賑やかだった頃。
 夏になると駅周辺一帯で開かれるイベントに金魚すくい大会があり、動物好きだった私は金魚が見たい一心で早くから炎天下の会場前で待ち続けていたものだ。もしかしたら、あの金魚すくいにはこの店も関わっていたのかもしれない。
 蒸し暑さが引き寄せた懐かしさに身を任せ、気づけば不揃いに開く自動扉をくぐっていた。
 間口からして手狭なイメージを抱いていた店内は縦に長い作りのようで、想像の通り広くはないものの、両サイドに整然と並べられた水槽の数はかなりのものだ。そのひとつずつに取り付けられた照明器具の発する淡い光が列をなし、外とは打って変わった涼しさも相まって、どこか別世界へ足を踏み入れたような感覚に陥る。
 一息つくと、汗ばむ額に張りつく前髪を掻き上げてハンカチで拭った。店内は独特の静けさに満ちている。入店を告げるベルがひとつ鳴った他は、水槽内に酸素を送るポンプの稼働音だけが遠いさざ波のように響いて鼓膜をくすぐった。
 鱗を煌めかせて泳ぐ魚たちを見やりながら、『いらっしゃいませ』の声に顔を上げる。その人は私の入店に気づき、奥のスペースで作業をしながら顔だけを振り向けて声を掛けてくれたらしい。好きに魚たちを眺めて、用があれば呼んでくれというシステムのようだ。
 けれど私の目は水槽を見て回るどころではなく、再び背を向けて仕事に戻ったその人へ釘付けになる。魚たちの世話をする彼女の一挙手一投足の迷いの無さを目にした途端、散らかった自分の内面をも丁寧かつ潔く整えられていくような、それは不思議な感覚だった。
 どこから手をつけるべきなのか。自分でも目を逸らしたくなるようなぬるい湿り気が充満した空間を、突如として冷たいメスで整然と切り開かれるような紛れもない快感。それが一瞬にして全身を駆け巡り、細胞をざわつかせた。
 肺へ送り込まれる酸素の新鮮さに息を呑む。意識せずとも行われる呼吸すらままならなくなっていたことを、自分を取り囲む窮屈さに対する余力、それがもう少しも残っていなかったのだということを、この時ようやく私は自覚した。
 自然とその人の方へ足が向く。少しの距離を置き、優雅に泳ぐ魚を眺めるフリすら忘れて凝視した。
 水槽をチェックするために屈んだ彼女の背中は美しく、たわんだ白いシャツがジーンズのウエストにきゅっと絞られることで強調された腰のラインの無防備さといったらない。そしてアイロンをかけられているだろう皺ひとつない生地の下、すっと伸びたしなやかな背は一瞬にして私の目を奪った。その見るからに柔軟な背筋を交差するエプロンの紐に対し、私は本気で羨ましいと思ったのだ。
 几帳面に捲り上げた袖から伸びる肘関節は意志の強さを宿すように鋭く、スニーカーに包まれた両足がしっかりと床を踏みしめて立つ様は、まだ知らないその人の真っ直ぐさを示しているようだった。
 さらにはしっとりと落ち着いた低い声も彼女に備わるものとしてこれ以上なく相応しく思え、聞いたばかりの『いらっしゃいませ』の音を必死で反芻し、次からはどんな音も聞き漏らすまいという決意が芽生えたのもこの時だ。
 綺麗な人。そう思うと同時に、十七にして初めて私はひと目惚れがどんなものなのか身を以て知ることになる。胸の名札と、年の近そうな店員が下の名前で呼びかけたことから彼女の名を知れたが、知った今では迂闊なことをしてくれるなという思いでいっぱいだ。彼女の情報を、他の誰にも与えたくなかった。
 村島律という名を背骨のように中心に据える。その安定感に目もくらむような安堵が芽生えると共に、目に映るもの全てが急激に色づき始めた。文字通り、私は長い眠りから目覚めたのに違いない。
 その後も学校帰りに何度も店に立ち寄った。そして、あなたに惹かれるという気持ちを伝えたことをきっかけに、律さんもまた私の前では店員の顔を捨て、取り繕わない素顔を見せてくれるようになったことが嬉しくてたまらない。
 こっちをちらりとも見ずに水槽の温度計をチェックする後ろ姿から、私に期待を持たせまいとする意地ようなものが伝わってくる。
 女子高生が嫌いだという歯に衣着せない言い様さえ、混じりけのない鮮やかさで私の胸を打つことをあなたは知らない。
 中腰になってもすらりと伸びた美しい背中に向けて、言葉を返す。
「同じですね。私も好きじゃありません」
 スイッチが切り替わるように相手ごとに豹変する態度も、何がそんなに可笑しいのか無駄に大声ではしゃぎまわることも、笑顔の裏では平気で他人を見下していることも、どれもこれもが好きじゃない。
 学校という場に蔓延しているあれこれに辟易してしまうのに、そこに行かなければ世界が終わるとでも思っていそうな家の空気にも馴染めなくて息苦しくて、私の皮膚の下はいつだって好きよりも嫌いがぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。
 ぬかるみから抜け出せず、じわじわと泥に呑まれていくうちに足掻くことも忘れ、やがて体と檻は一体と化していく。けれどそれが取り払われた時、檻の外に乾いた地面があることを思い出した。嫌い以外の何かがあるかもしれない。そんな確固とした場所が、自分にもあるのかもしれないということを。
「そう。それはやっかいね」
 律さんの声音は相変わらず淡々としたものだ。けれど一貫してこれ以上は近づけまいとする意向のブレなさに、自然と肩の力が抜けていく。裏も表もない、それが律さんの本心だとわかるから。
「所属する群れに馴染めなかったら、動物だって死ぬんだから」
 そう言う律さんは、どこかに所属しているのだろうか。わかっているだけでも職場であるこの店。それ以外を浮かべようとして、この店の中での律さんしか知らないことを突きつけられた形になる。
「律さんのいる群れに、私は入りたいです」
 素直に思ったままを口にした。この人の前でなら、私は自分を見失わずにいられる。嫌われるかどうかより、偽らない律さんに対する私なりの誠意のつもりだ。
「こわい子だね、あんた」
 嘆息して律さんが振り向いた。ラウンド型のレンズの奥、理知的な瞳が言外に呆れたと告げている。
「だから女子高生って嫌いなのよ。多感で敏感でヒリヒリしてて、見てるこっちが疲れちゃう」
「あと一年そこそこで女子高生じゃなくなります。それに、私もその群れに馴染めたことはないですけど、女子高生という存在を全て一括りにしてしまのは違うと思うんです。熱帯魚も同じ種類だけど個体によって差があるって、律さん言ってたじゃないですか」
 振り向いた拍子に形良く纏められた髪の一房が鎖骨にかかったのを後ろへ払いながら、律さんはもう一度重く息を吐いた。
「ホント、そういうとこね」
 困惑と苛立ちを滲ませながらも、ちょっと言い過ぎたと言って謝ってくれた。謝らせたかったワケじゃないし、私の言葉を受け止めてくれたことがただ嬉しかった。
「あなたの傍にいたいんです」
 何度目かの願いを口にする。次に律さんの言うことはわかっていた。感情を抑えるように切れ長の瞼を伏せると、さりげなく施されたアイシャドウの色味が少し窺える。許された距離からそれを見つめられたならどれほど幸せだろう。律さんの瞼を飾るひとつひとつを、時間をかけてゆっくりと確かめられたなら。それは、どんなにか──。
 律さんはひとつ息を吐き、私に据えた視線を店の一角へと流した。
「向こうにベタって種類の魚がいるのは知ってるでしょ。あの子らはあんなに綺麗な姿をしてるのに、縄張り意識が強くて同じ水槽に入れると傷つけあってしまうんだ」
 言い終えると、その瞳がもう一度私に向き直る。
「我の強すぎるあんたも同じだよ。それから、私もね。同じ水槽では生きられない」
 突き放す口調を耳にしながら、私はどうしたってこの人が好きなんだという思いが込み上げるのを抑えられずにいた。
 律さんも群れに馴染めず一匹でいたのなら。それは出会うべくして出会った一匹と一匹ではないのか。胸の内でそんな思いが湧いてくる。
「あなたが好きです。桐木いちるの名にかけて」
 ここで言えることは、それ以外ない。
「……聞いてた? 私の話」
「律さんの言うこと、一言だって聞き漏らすわけないです」
「……あ、そ」
 来客を告げるベルが鳴ったのを合図に、頭を下げて失礼しますと言い置いて店を後にする。入れ違いに入ってきた女性は制服姿ではなかった。
 右手に提げた学校指定の鞄も、身につけた校章入りのブラウスもスカートも何もかもを放り出し、思い切り叫びたい衝動に駆られる。
 女子高生という、まだ子どもである証。それを捨ててしまいたいのに、ありのままで向き合える人だからこそ、こんなにも惹かれるのだという思いが衝動を押し止めた。
 律さんは真っ直ぐで、あの人からしたらどうしようもなく子どもである私にも偽らない。そういうところがたまらなく好きなのだ。もっと知りたい。あの人のことを。
 そんな風に思う一方で、好きな人が自分を好きでないのなら、引き下がるべきではないかという声が囁いている。そうすれば、これ以上相手に迷惑をかけることはないのだから。でもそうとわかっていても聞き入れることは出来なかった。少なくとも、今はまだ。
 沈むばかりじゃない場所があることを、自分が恐れなければその場所に立てるのだということを知る。それは余りに大きなことで、文字通り世界が一変した瞬間だった。あの喜びを細胞レベルで忘れらずにいる。きっと、これから先もそうだろう。
 そんなものありはしないと、生じる期待を砕きながら檻は自身の扉を開けられる対の鍵を探し続け、そして見つけてしまった。そんな大切な相手を簡単に諦められるワケがない。
 律さんを好きになったこと。その自分を情けないものにしたくない一心で顔を上げた。律さんのように胸を張り、律さんの立ち姿をなぞるようにして姿勢を正す。
 子どもの頃、特設されたプールに放たれる鮮やかな金魚をひと目見るために、滴る汗も構わず立ち続けた光景が甦る。いま胸にあるのはあの時と同じ、純粋な期待と喜びを内包する種子だ。
 背骨に宿した村島律の名に恥じぬよう、ローファーの踵がしっかりと地面に下ろされる。
 夏を間近に控えた梅雨の晴れ間。ところどころ濡れた路面が、差す陽を弾いてきらりと輝いた。




こちらは律さんサイドのお話です。

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