時代の変遷に適応できない(24/08/07)

この間の金曜ロードショーで『リメンバー・ミー』を観てから、自分がピクサー好きだったことを思い出していた。病気になって1年半、今も仕事を止められているので節約のためにディズニープラスを解約していたけれど、ふと思えばその期間、毎日何をして生きていたのだろう。覚えているのは世界のドキュメンタリーと『おさるのジョージ』を片っ端から観倒したことだけ。

月も変わったところだし、ディズニープラスをもう一度契約することにして、手続きをしたら、早速観ていなかったピクサー映画『マイ・エレメント』を観た。ルクソーJr.が跳ねてPIXARの"I"を潰すのを久しぶりに観てテンションが上がる。言語化できないがなぜだか泣ける映画だった。障害を乗り越えた先の真実の愛だとか、種族を超えた愛だとかに弱い、みたいな話かもしれない。

久しぶりに子供向けのヒーローアニメ『ミラキュラス』も観て、昔このアニメのラバストのガチャガチャを狂ったように回していたことを思い出した。

当時のことを振り返ると、なんだかモヤッとした記憶も芋づる式に出てくる。当時働いていた会社の人に好きなアニメやアイドルの話をしたら、しきりに「そんな王道好きになれたことないです〜」「わたしが好きなアイドルは日本で全然人気ないんです〜」と言われたり、彼女がマッチングアプリで出会った男性に対して、「彼がわたしのことを好きなのは、わたしが東京出身で経歴も珍しいからですよ」と言われたこと。「わたしはこんなに変わってますけど、あなたはそんなに普通で面白味も無いんですね〜」と、なんだか希少性マウントを取られたような気がして、モヤッとした。本人はそんなつもり無かったのかもしれないが、じゃあ一体何の意味があってわざわざあんな言い方を続けたのか聞きたい。

振り返ると、『鬼滅の刃』が流行り始めてから日本は総オタク国家になって、「好きなものがあるって素晴らしいよね」、「むしろ推しが居ないってどうなの」みたいな空気と圧を感じるけれど、社会がまだ"そう"なる前、わたしが好きなアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』はフレネミーにくだらないと言って馬鹿にされた。『鬼滅の刃』以前は一般人(オタクではない人のことをオタクの間でこう呼ぶ)にオタクだとバレないようにめちゃくちゃ気を遣っていたし、服装や話し方でバレないよう擬態するのがオタクのマナーだった。長い間オタクは虐げられてきたんだ。

"普通"過ぎると面白味がないと思われるし、"変"過ぎると異常者だと差別されたり偏見の目で見られるから、わたしはずっと"ちょっと変"くらいで生きることを選んできたけれど、会社の彼女は"変"でありながら近年の"王道サブカル"でもあり、オタクなのに偏見の目で見られたり差別されないタイプの新しい人類だった。近年こういうタイプの特権性のあるオタクが異様に多いが、わたしはこのような人のことをニュータイプと呼んでいる。ニュータイプはいつまでも羨ましい。正直ずるいと思う。わたしがオタクだった時代もこれだけオタク文化が流行っていたら嫌な思いをしなくて済んだかもしれない。(わたしが体験してきた悲しい記憶を、連鎖させてはならないことは確かだが、急に立場が逆転して、"変わっている方がいい"、"オタクの方がいい"となるとついて行けない)

わたしは他人にどう思われるか気にするのをそろそろ辞めたほうが良いが、全く気にしないで生きていくのなんて絶対無理。統合失調症で見えない声が聞こえてくるし、見た目のせいでいじめられた挙げ句、「いじめられる方に問題があるよね」と言われる、なんでも自己責任にしたがる社会なんだから。

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