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藤田莉江写真集「クラムボン101」あとがき


rememberという単語には「思い出す」と「覚えている」の二つの意味があると習ったけれど、本当は意味が二つあるのではなく、日本語で「思い出す」「覚えている」と分けられる記憶の作用を、英語ではその一語で包括するらしい。
よくよく考えてみれば「覚えている」から「思い出す」のであって、この作用に一つの言葉をあてるか二つの言葉に分けるかはその言語のクセのようなものに過ぎない。
一つの言葉にただ一つの意味が対応するわけではない。
他国語と比較したらわかりやすい話だけれど、日本語だけを考えてみても実はそうだ。一つの言葉には無数の色合いと揺れがある。

宮沢賢治の「やまなし」という詩は小学校の国語の教科書に載っているけれど、AとはBであると教えられがちな学校の授業で「クラムボン」は何かわからないと教えられたときの衝撃。
クラムボンは笑ったり殺されたりする。どうしても「正解」を与えたい向きには「水中から見上げた泡のことである」という仮説が用意されてはいるが、本当はクラムボンは何であってもよく、何でなくてもよい。意味を投影するのも自由だが、意味などから離れてことばと世界の空漠に身を晒してみてもいい。
大人になるにつれ、人の言語感覚は各々の経験という擦傷を重ねて凝固してくることが多い。

一見わかりやすい押し出しの強い言葉ほど、個人的な思い込みの檻に閉じ込められていく。愛だとか正義だとか。いやもっと当たり前な言葉であってさえも。
クラムボンは何でもいい、何でなくてもいい、そういう意味と無意味のあわいにとどまり続けることが難しくなってくる。
一つの言葉は背後に多くの層と滲みを背負っている。

彼女がクラムボンという言葉にどんな色味を想定しているか、もしくは何も想定していないかはわからないけれど、凝固しがちな意味の世界に、ゆらゆらと裏から光を滲ませるような、そんな光景が続く。
クラムボンにくっついてる「101」は何? と聞くと、台北の有名なタワーの名前なのだそう。
台湾で撮られたスナップ集であるということのわかりにくい符号。
しかし、どこで撮られたかにあまり意味のある写真たちではなく、雨後のテニスコートも凝視する鳩も、水底から見上げたクラムボンのように煌めいて流れていく何かである。

(2019.8 藤田莉江写真集「クラムボン101」<私家版>あとがき)

藤田莉江 https://riefsaya.wixsite.com/rie-fujita/bio

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