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【811】教える必要のない人に教えること。……

教育や学習は成果が短期的には見えにくいものですし、成果が一発で見えるような「教育」に大した価値はなく、それゆえコンテンツの価値を受益者が理解できない(即座に理解できてしまうような「教育」は極めて皮相的である)ということになりますが、教育や学習を売り出す、ないしその価値をアピールする際にはとりあえず「実績」を作り上げる必要があります。

そのための手段としてよく採られるのが、とりあえず「成果」を出してくれそうな人をあの手この手で客にする、ということです。無論、大学受験予備校がやっていることです。

某予備校は東大の二次試験の受験票を提示すれば——つまり、センター試験(今は共通テストですか)による第一段階選抜をクリアした、と証明できていれば——浪人時の学費をタダにするようです。また別の予備校では、指定された模擬試験で一定以上の判定をとっていれば特別な講義にご案内、ということもやっています。あるいは「A判定なら講座〇〇個分無料」になるところもあります。

私もそうした恩恵を受けてきたわけですが、考えてみれば或る種の義務の放棄の側面もある、ないしは業務そのものの意義に関する興味深い認識がある、とは言えるでしょう。

ぶっちゃけ、そうした優遇を受けられる人は予備校なんかなくても受かるのですし、寧ろそうした優遇を受けるに至る何かしらの前提を既に持っているわけです。とまれそうした前提を持っている生徒も様々な目的で予備校にいきます。安心のためであったり、あるいは知的好奇心であったり、講義の内容というよりは雰囲気と情報交換と出会いのためであったり、目的は様々ですが、いきます。そしてわりと順当に受かります。受かればそれはそれで、また報酬っぽい物が出ます(図書カードを貰える、等)。そうして予備校の「実績」になります。

もちろん、上澄みをさらに伸ばす、ということ、それゆえ受験などという狭苦しいものにヘンに囚われずに学んでもらうこと、そのためのシステムを供給すること、にはそれはそれで意義があるのですが、本当に学力を伸ばすという観点から、つまり放っておかれれば閾値の下にいるであろう人に閾値を超えさせる、ということが実際にどのくらい達成されているかと言えば、かなり確度が低いおそれすらあるでしょう。

まあ、でもそれでよいのです。放っておかれても受かる人をつなぎとめて「実績」をだしてもらえば、どうせそういう人たちの出す「実績」は高いものなので、それを広告塔にして無限に集客できるのです。しかしそうして集められた、必死の思いであつまってしまった顧客の中には、声もあげられず、閾値をついぞ超えることなく、声なきままに敗れ去っていく人も実は多いのではなかろうか、などと思われるものです。

……いや、別に予備校に限りませんが、「富める者を、富むことが確実であるところの人を、さらに富ませる」という極めて合理的な方針、「合格体験記」しか出さず「不合格体験記」にフォーカスしないタイプの方針は、何か極めて大きな欠陥を持っているのだろうと想像せざるをえません。