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【283】有用性にさよならバイバイ?

先日ある映画を熱烈にすすめまくっていたところ、マジで見てくれた友人がいました。

しかもその友人は、極めて長大なる感想を私に送ってくれて、話が盛り上がり——いや、私が勝手に盛り上がっているのに付き合ってくれた面もあるのだと思いますが——大変嬉しい気持ちになりました。そんな所から出発して。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


私の側は、その映画を見てしばらく経っていたので、数万字単位での感想——否、感想というよりは寧ろ分析ですが——を用意していて、寧ろ相手に負担をかけてしまった、大いに余計な時間を使わせてしまった可能性もあるのですが、ともかく自分が良いと思ってるものを認めてもらえて、それについて話をできるというのは、とても嬉しいものでした。

特にその映画を見てくれた友人は、専門としている領域はもちろん違いますが、私の友人の中でも屈指の性能を誇る頭脳を持っており、人柄も至って篤実んあので、(私の同業者と会話をしているときに回されがちな)どこか空虚な言葉ではなく、一歩一歩着実に進む、少しずつ確かめるような言葉でもって、やりとりをできていると感じます。嬉しさもひとしおです。


さて、嬉しいとか楽しいとか言っても、私は実のところを一銭も得してないのですね。

映画を配給している会社からカネをもらってるわけではありませんし、外野から見れば、そんな感想を書いているぐらいだったら時給いくらのバイトでもやって金を入れた方がいいんじゃないか、と言われうるわけです。

そして、映画の感想のやりとりは、「ゆくゆくは金銭的な利益に結びつく」というものでさえないと思われます。もちろん結びつけようはあると思いますが、さしあたりそうする気はないということです。

そんな感じで、一銭も儲かってはいないのですが、こうした時間は私にとってはかけがえのないものですし、極端に言えば、そこにはいくら時間や労力をつぎ込んでも良いと思っています。あるいは、そうしたところに投入するためにこそ、時間と金を得る必要があると思っています。

仮に綿密な感想のやりとりがなかったとしても、良いと思っているものが世界に広まるというのは、それ自体実に嬉しいものです。

良いものは何もしなくても広まるものだ、という信念を持っていたいのはやまやまですが、人間は怠惰で愚かなものですから、良いものは良いものとして積極的に提示していかねば、広まることもありません。つまり良いものについては自ら何らかの媒体になって拡散してゆきたいと思われるものですから、そうした試みが成功する瞬間は、実に嬉しいものです。

とはいえこうした欲求をいくら実現しても、全く私の得にはならないのですね。「嬉しい」と言えば嬉しいのですが、懐にお金が入るわけでもなければ、私の人生が長期的に向上するわけでもなければ、狭い意味で将来に金銭的リターンを返すような営みでもないでしょう。

儲からなくても、私の価値が認められるわけでなくても、やるのですし、そこにはもはやそれ以上何も追求するところがない価値が潜んでいるように思われます。


もちろん、見る人が見れば、自分でない何かに命を捧げる、謂わば他人の人生を生きている、極めて惰弱な態度に見えるかもしれません。

なるほど、そうした理由から、当事者意識を持って接することの難しいフィクションを一切嫌う人がいるということも心得ています。

しかし、実に自分ごとでないものに、つまりごく狭い意味でのフィクションに力を切り分けて与えるということは、ある究極の場面においては、それ以外の目的はないと言ってもよいようなものであるようにも思われるのです。

それはもちろん、木庭顕が『誰のために法は生まれた』という極めて啓発的な書物で何度も言っているような、不透明な力のうねりに満ちた現実があまりにもクソッタレだから、演劇をやったり演劇について語ったりすることで透明な・真っ当なコミュニケーションを成立させる、ということに通じることでもあります。デ・シーカ『自転車泥棒』が演劇に興じる民を映すときには、自転車を盗んでバラバラにし、もはや痕跡を確かめることのできない世界へと取り込む、そうした不透明な力学とは異なる世界を照らす効果が見て取られます。

実に現実よりもフィクションの方が重要なのだということ、あるいは現実の純粋な形態はフィクションそのものだということを感じずにはいられません。


そんなことを考えていると、私が普段あまり好きになれないと思っている広告業というものに命をかけている人にも、ひょっとしたらそういうところがあるのかもしれないな、と思われるわけです。

広告というのは、極端に言えば、自分でない何者か(の商品やサーヴィス)を、特殊な仕方で広く知らしめることに存する仕事ですが、なぜ自分自身の存在を、自分の持つ価値をそもそも知らしめないのか、そのほうがよほどリターンが大きくはないか、という疑いは常々持たれていたところです。或る種寄生的なものに見えていた、ということです。

実に自分の持つ価値を知らしめるとか、自分の懐に直接的に金銭を入れるとかいうことを超えて、全く自分事でないものに対してあるかたちで生命を燃やすという意味での利益——これは金銭的なものでもなく、もっと抽象的なものですが——もありうるな、と最近は思われる次第です。


極めて世俗的な仕方で言い換えるのであれば、人間は交換可能な利益のために生きるわけではない、ということですし、あるいはもう少し予防的なかたちで言うのであれば、何の利益もない(ように見える)ことをヒトが(あるいは自分が)やっているときに、それをわかりやすい交換可能な利益に回収するかのような言説は厳に避けて通りたいということでもあります。

つまり、「ゆくゆくは役に立つ」とか、「これは実は何々の役に立っているとか」いうことを考えずに行う、そうした意味での無益さがあってもよいし、そうした無益さこそが本質的だと感じさせられる、という次第です。

もちろんそうした無用なもののために生きるには、そもそも生存しているということが必要なので、一定の有用性を確保しつづけることは必要です。資本主義社会であれば何らかのかたちで働くとか、あるいは資本や人を用いて金銭の流入路を確保しておくということが必要になるわけです。

が、それはともかくとして、「役に立つ」とか「金を儲ける」とかそういったことを終点に据えて生きるような生き方は絶対にしたくないな、ということを再確認することはできます。金を稼ぐにしたって、あるいはそうした技術に配慮するにしたって、あたかも「全てがカネになる」「全てをカネにする」というような発想の背後にある(金銭的な意味ではない)貧しさには、徹底的に背を向けようという思いをあらたにした、ということです。

もちろん、カネを稼ぐことが自己目的化して、それで楽しくやっている人があるとすれば、それはそれで幸福でしょうし、有用なものが有用なもののために有用である、というかたちで、有用性の鎖が閉じられた中に生きてゆけるのだとすれば、それはそれで一個の幸福かもしれませんが、不幸にして、そして最大の幸福の証として、私たちは一切無益な領域を知っているのです。有用性の、役に立つことの「終わり(finis/end)」としての「目的(finis/end)」があることを、私たちは平素から予感しているのですし、その予感ははっきりと意識のもとに引きずり下ろすべきでしょう。

有用性の終わりは、とりもなおさず共有された空間の、交換可能な価値の終わりでもあります。私たちは各々にとりかけがえのない、役に立たないもののために生きるのです。自分は役に立つために生きているのではなく、決定的に役に立たないことをやる(やりつづける)ということをこそ究極的な目的としている——役に立つものの目的は、その名からして、そのもの自体に対して外在せざるをえないからです——、この点を見失ってはならないでしょう。自らのありかたを見誤ること、曇らされた認識を持つことは、明晰に見えている間近なものに対する態度をも誤ったものにしてしまう可能性があるからです。

……ということを年の瀬に再確認したという次第です。

■【まとめ】
役に立つこと・役に立つものを最終的な目的として据えることはできない。寧ろごく個人的な趣向や好みによるものかもしれない、役に立たないものこそが、有用性の連関を(その都度)終わらせる目的であり、有用なものを念頭においた活動をするにしても、この点をこそ射程に含めておくことが必要になるかもしれない。