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【481】フィクションの果実(4):その虚構で、現実を断ち切れ

フィクションは紡ぐ側にとってはもちろん現実から一歩離れて、現実の物事を考えるための素材になるわけですが、現実を考えるためのフィクションでないとしても、そして作る側でなく読む側においてすらも、フィクションというものには、とりわけ作品という形式をとるフィクションには、現実を遮断する強烈な効果があります。


現実というものは、端的に言ってクソッタレです。

あるいはもう少し正確に言えば、クソッタレな部分を必然的に含みます。
 
トータルでどう言えるか、ということに関する価値判断は差し控えますし、この点についての一般的な共通了解は、必要も可能性もありませんが、現実に悪いことがまったくない、と考える人はごく少数ではないでしょうか。政治が悪いとか景気が悪いとか上司が悪いとか配偶者が悪いとか、色々ありますが、特に愚痴っぽいわけではない人もやはり、満員電車で不快な目にあったり、不快な行き違いがあったり、ということはあるはずです。

現実世界には良いことしかない、と考えている人はもちろんいないはずですし、本気でそう思っている人がいるとすれば「幸せな人生をお過ごしなんですね」ということになります。もちろん、何であれ善悪というものは相対的であって、存在しているからにはそれを良いとみなすことができるのだ、という新プラトン主義に由来するような(そして西洋中世に引き継がれたような)見解を持つことはもちろんできますが、ここまで極端な綺麗事を本気で信じている人はあまり多くないでしょう。

どこに行っても現実には不透明な力学というものがありますし、徒党を組んで集団が個人を闇の中で抑圧する仕組みはそこかしこに溢れています。もちろん、そうした現実に直接立ち向かっていくこと、あるいはそうした現実の流れに棹さして生きていくことは重要ですし、一定程度はやらなくてはならないことでしょう。

例えば、資本主義社会がクソッタレだという、それ自体としては十分に可能な主張があるとして、そのように主張する人だって、現代日本においては資本主義のルールの中で生きていくことが概ね必要になってくるものです。(もちろん「そんなに嫌なら資本主義国家ではないところに居住しろよ」という指摘は意味を持ちません。ある選択肢を選んだ、ないしは選びつづけているということは、その選択肢をあらゆる点において最良と思いなしているのだ、ということを必ずしも意味しません。)

徒党が個人を圧殺することを悪いと思っても、私たち自身がともすると極めて醜悪な集団の力学を引き受けて行使してしまうことだってあるわけです。

いくら現実を批判しようとも、現実に従わざるをえない、現実において生きているからには、謂わば全存在を現実から人質に取られている、ということです。


そうしたクソッタレな現実から束の間逃れる手段として、フィクションというものは実に強い効力を発揮するようにも思われます。

そうしたフィクションを享受している瞬間や、そうしたセクションについて語り合っているときには、束の間一個の透明性に貫かれた共同体のようなものが顕現すると言っても良いのかもしれない、ということです。

(もちろんこれは、ある種理想化された、現実に即さない主張かもしれませんし、フィクションに触発されて生じる言語的現実の中には、もちろんクソッタレなものもあります。つまりはフィクションを巡って、不透明な権力のやりとりや、個人に対する不当な攻撃が行われることは少なくはありません。)

フィクションというものが現実を描くにせよ、あるいは現実でないものを描くにせよ、フィクションとして私たちに供されているものに触れるということ、そこで生じている読書や観劇の行為そのものは、ある種クソッタレな現実から少し離れた行為となるのですし、そのフィクションについて、あるいははフィクションの実演について言葉を交わすということもまた、その現実から逃れる営みを延長し、この現実において顕現させている、と言っても良いでしょう。


こうした束の間の逃避は、なるほど何も変えないかもしれません。それどころか、クソッタレな現実そのものにおいて私たちの一人一人が生きながらえるためのエネルギーを準備することにすらなるでしょう。つまり、こうしてとらえられたフィクションというものは、奴隷に与えられた休憩のようなものだ、と捉えることも可能だということです。

とはいえ、束の間の休息を得た奴隷が得るのは、労働生産性に資する身体的な自由ばかりではありません。精神においても一定の自由を確保しはじめるのです。

フィクションの内容それ自体は、必ずしも現実の理想を打ち立てたり、現実の悪を暴き出したりするものではないかもしれません。それでもフィクションが現実を遮断しつつ与える自由と、その自由を共有することで開かれる自由は、目の前にある現実を徐々に転覆させ、少しでも「クソッタレ」ではないものへと変化させてゆく、そうした力を準備するものではないでしょうか。

大なり小なり、様々な仕方で駆動するフィクションは、少なくともこうしたかたちでおおいに現実的な効力を持つのですし、そうした効力があるということを見ておく作業は、決して無意味ではないでしょう。