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【451】額面通り受け取ってもらうための2つの道?

極めて雑駁に言えば、人が何か言ったり書いたりする場合には、2つの意図を区別する可能性が生じます。

一方で、その人本人が自らの表現を介してこれこれこういうことを言いたいのだと主張する限りでの意図があり、他方で、その人の判断からさしあたって切り離された、表現それ自体から私たちが読み取ることができる限りでの意図があるということです。後者は広義のテクストの持つ効果ですし、人によっては著者(話者)の無意識を読み取るところです(ごくわかりやすい例では、フロイトが言い間違いのうちに無意識を読もうとしたように)。

文学作品の場合にはあまりにも当然の事態ですが、作品は著者本人の意図をはるかに超えた効果をもつのです。著者の意図や見解はある意味で特権的な効果を持ちますが、解釈を独占するわけではありません。

というより、著者の意図からはみ出るところがない作品は正直に申し上げてつまらないと言ってよいでしょうし、「私はこういう意図を持って作品を書いたんです!」などと著者が大胆にも主張するとしても、それが裏切られ、ずらされることこそが作品の可能性というものです。著者の意図というものを重視しすぎてはならないことの所以です(この実演の例は文学研究にあふれていますし、本当に真摯なテマティック批評はそうした性質を強く持ちます。極めて稚拙な、しかし指弾されるほどに稚拙なわけではない、寧ろまっとうな例としては、テマティック批評でなく、また批評ですらありませんが、私の固定記事をご覧ください)。

これは特別に文学的なことにのみ当てはまるわけではなくて、日常のやりとりにおいてももちろんそうです。

「私はこんなことを言っているつもりはなかった」などと言っても、そんな主張には相対的な意味しかありません。話者本人が自らの言葉からそういうことを読み取ることはできない、と主張するのだとしても、「わかりました、認めます」とはならないでしょう。発言や文字テクストは著者から切り離されて、発言者や著者の見解は、単に一個の解釈としてのみ効果を持つということです。


実にこんなことは、或る種の場面においては明らかです。

例えば物やサーヴィスを売っている人が、「私は金儲けがしたいのでなくて、これこれこういった価値をお客様に提供したいのです!」と思って明確に主張するのだとしても、その表現の仕方によっては、周囲は「いや、お前は金儲けがしたいだけじゃないか」と思われかねないでしょう。

そのどちらが正しいか、ということについては相対的な話しかできませんし、どちらかが完全に間違っている、ということは稀でしょう。もちろん商売をしている人間は程度の差こそあれ金儲けがしたい、ないし儲ける必要がある、ということは誰しもが前提に置いていることで、だからこそあえてそこをつつき回すことはありません。

自分の利益などというものはどうでも良くて価値提供したいのです、などと熱をこめて言うとすれば、それは疑わしく見えるのが当然ですし、「いやお前金儲けしたいだけだろ」と思われるという成り行きです。

もちろん言わぬが花です。言わずに済むくらいには、皆さん織り込み済みでしょう。売る側が金をほしいのは当たり前で、売る側も買う側も、そんなことを改めて言い立てる必要はないのですから、「価値を提供したいんです(いや金ほしいんですけどね)」「ほお素晴らしいですね(いや金ほしいんでしょ)」という上滑りしたコミュニケーションが成立するというわけです。

あるいは、単なる具体例として申し上げるのであれば、広告業というものは良いものを然るべき層に認知させてそのことで社会に貢献したい、ということを主張する業種であると言えるかもしれません。少なくとも私の知人で広告業界に進んだ人間はそのようなことを言っていました。プライヴェートな場で、取引関係を持ちうるはずもない相手に言った言葉ですから、その人なりの真実を込めた言葉だったのかもしれません。しかし私は内心、「いやいやいや、そんなお綺麗に言わなくても、人の欲望をダシにしてガバチョガバチョ儲けてるんでしょ」と思っていたのですね。

これはもちろん私の偏見と言ってよいのでしょうし、おおいに先入観の入った心理的反応だったのかもしれませんが、キラキラした顔でお綺麗な理念を語られても、かえって胡散臭く見えるばかりで(広告業に携わられている方、ほんとうにごめんなさい)、「いや、でも、君はそんなこと本当は思ってないでしょ、広告業界に入ったのだって給料と見てくれがいいからでしょ」と言いたくなる。もちろん言いませんし、別にそういう「意図」があるのはいいんですよ。とまれ、お綺麗な理念ばかりを口から出す人の言葉通りの「意図」は、本人の普段の振る舞いや、行動の履歴から、総合的にその正当性が吟味されるのであって、どうにも嘘臭いと思われたらおしまいだとも言えます。

あるいは似たようなことは、年若い人間が、少しく年を食った人間に相対したときに、わずかに年をとった私たちが返してしまう反応かもしれません。

極めて図式的な見方にはなりますが、心無い人であれば、中学生の男子の恋愛感情というものは性欲にまとわせたお綺麗な衣に過ぎない、と考えることもあるでしょう。そこにいくら巧みな言葉が塗り重ねられていようと、本人がいかに成熟していようと、中学生の男子であるという事実が先だった判断がなされうるということです。

(注。まあ、年齢に関係なく、「恋愛感情」なるものを全て性欲へと帰着させる極端な物言いもありますが、それはそれで、ヴェールを纏った婦人をモデルにしながら裸婦の絵を描くくらいには飛躍しています。)

あるいはそうでなくても、子供がどんなに一生懸命に自分のやりたいことや自分の意図といったものを説明しようとしても、大人の側は真剣にとりあわず、退けたり茶化したりすることがしばしばです(私のいた環境だけですかね、必ずしもそうではないと思いますが)。

「男がいきなりギター始める理由なんて一つしかないだろ、女にモテたい」(杉井光『さよならピアノソナタ』角川書店、2007年、p.82)という文言は或る種のステレオタイプをなぞったものです。私も中学で吹奏楽部に入った折り、お世話になっていた塾の先生に挨拶に行ったら、「女の子がいっぱいいるから入ったんだろう」などと言われたものです。私が然るべき熱意を持っていたのかも、音楽に関して基礎知識がある12歳の子供の選択としてそこまで奇妙だったのかもよくわかりませんが、モテたいならテニス部にしたはずです。

(注。ただし、「女の子がいっぱいいるから入ったんだろう」というのは半分事実で、小さい頃の私の遊び相手はわりと女性でしたし、だいぶ克服されたにせよ、今以って女性と喋るほうが気が楽なところはあります。)

ここには、相手の知的能力や一貫性に対する見くびりという深刻な要素が介在しているとはいえ、構造は一緒です。つまり、相手が主張する限りでの意図と、相手の言葉や行動の総体から読み取られる限りでの意図の間には乖離がある、ということです。


こうしたあたりまえの例を挙げて何を言いたいかと言えば、私たちはこういう二段構えの判断をごく自然かつ健全に行っているよね、ということです。上に述べたような場面で人が自らの意図を表明するとき、私たちは概ねそれをタテマエとか気の迷いとかだと思って(あるいはそこまでいかなくても、額面通りには受け止めず)、その背後をほとんど本能的に探ります。

この点は、2つの観点から重要です。1つ目は今回は軽く見るのみです。


第1に、こうした態度を私たちは忘れうる、ということです。特に慣れない分野においては、提示されている表現のほうを適切な色眼鏡をかけつつ読むというただそれだけのことが、私たちにはなかなかできません。

わかりやすい「金」や「欲求」が、広く共有されたわかりやすい利益への志向が透けて見えるような場面であれば、寧ろ私たちは初めから疑ってばかりいるわけですが、そういった要素が見えにくい、或る種の純粋さが前提されるところでは、権威に幻惑わされたり、新たな事実に困惑したりするなかで、陰険さや支配欲や当然読み取られるはずの「意図」を見てとることができない場合が多い、ということです。

典型的には、知的に見える言説を振りまく人間の底意を、「真実」を喧伝したがる人間の戦略をはっきり意識したほうがよいということですし、そうでなければ相手の思うツボでしょう。知こそがもっとも分かちがたく権威と結びつくのですが、権威は本性的に自らを隠蔽しようとするので、見えにくくなってしまう。極めて広い意味で、知を喧伝する所作は権威を纏おうとする所作です(本人の意識はともかく、効果としてそうなるということです)し、この点に注意をはたらかせることが必要になるということです。

もちろん、私だって偉そうに言える立場ではありませんよ。見知らぬ分野で気軽に入門書を手に取れば、そもそもその選択においておおいに過ちうるでしょう。(無意識の)悪意を持っているかもしれない著者が(ときに無意識に)仕掛けた罠にハマりうるということです。


第2に、私たちの言葉や意図もまた、そうした重層的な判断にさらされうるよね、ということです。

繰り返すなら、私たちは相手が述べている綺麗な理念や立派な事柄をある意味では軽く受け止めています。つまり「ハイハイ」と受け止めて、「でも結局は〜でしょ」というかたち見くびってみたり、深読みをしてみたり、そうして相手の言うことを受け止めているわけです。

であれば、自分の言葉というものも、自分が本心から述べている(と思っている)ことも、当然相手には同じように捉えられて、軽んじられて、底意を探られる、と思ってしかるべきなのです。

あなたがいくら「私の意図はこれこれこういうことで、私はこう思っているんです」と表現したところで、「ハイハイ、わっかりましたー(どうせ××なんでしょ)」と周りの人は「勘違い」し、あるいは解釈します。あなたの表現の説得力(のなさ)や、あなたの平素の言動をもとに、知性の一片を用いて、総合的に読解を行います。

というのに、自分が自分自身の意図について見出した表現だけはどうしてか大事に思ってしまって、きちんと額面通りに受け入れられるものだ、そうあるべきだ、と思い込んでしまうことがないでしょうか。他人の表現を見くびりながら、あるいはそこから批判的な距離を取りながら、きちんと分節して読み取ろうとするのに、自分の表現だけは心からのものとして額面通りに無批判に受け止めてもらいたい、あるいは当然受け入れられるべきだ、とさえ思っている、ということはないでしょうか。


実にそんな希望を持つのはあまり賢くないことかもしれません。

そこで第1に推奨されるのは、まずはその希望を捨てるということではないでしょうか。人間関係という意味での、私たちが既に入り込んでしまっている地獄に再び入りなおすためには、「入らんとする者すべての希望を捨てよ」(Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate)という気持ちで、淡いまやかしの希望を捨ててみなければならないのではないか、ということです。

もちろん捨てるのはまやかしの希望であるからには、絶望しながら生きなさいということでは特にありませんが、ある意味での絶望や諦めが必要になるということです。


第2に、それでも私たちは希望せずにはいられないわけですから、いかにしてその希望が達成されるか、という戦略課題が出てきます。これについても、いくらか答えがありうるでしょう。

ひとつは、もはや自分の全存在をかけて、自らの表現——というよりも、行動や言動の全て——が相手に認識してほしい自分の像と一致するように演出することが必要になるでしょう。

これは優れて演出です。つまりは嘘です。

嘘と言うと聞こえが悪いかもしれませんが、裏を決して気取らせない、異様なくらいに表しか見せない、ということで、これは一個の努力です。綺麗事を本心として主張するなら、その綺麗事を一切裏切りえないかたちで全生活を統御するということです。バックヤードを見せない店の努力です。楽屋を見せない劇団の努力です。

あたかも月が同じ面を地球に向けつづけているように、一つの顔しか見せず、その背面にある顔は決して見せずに終わらせる、ということです。可憐な花は人目につかぬ夜にしか咲かせないと決める、ということです。

私たちはどうしたって人によって態度を変えますし、複数の仮面を常に使いつづけているわけで、その意味において当然のごとく嘘つきで詐欺師なのですから、警戒されて当たり前なのです。であれば、自分自身が自分自身の望む通りに理解されたいと願うのであれば、自分の言葉や自分の行動や細々とした振る舞いの一つ一つにおいて、決してひとつの顔しか見せない態度を貫徹する、唯一無二の説明が可能になる表現しか行わない、という方策があるのではないかということです。

あるいはもうひとつは、より楽に見える、二面性や多面性を隠さないこと、本音と建前の間に截然たる区別を設けず、「ぶっちゃけ」ることかもしれません。メイキング風景を強いて見せる態度と言ってもよいでしょう。建前が建前であること、本音が本音であることを、一段上の「本音」としてあっけらかんと提示するということです。或る種の様式美を求める世界ではもしかすると通用しないやりかたかもしれませんし、たとえば月の裏側に隠さねばならないものがある場合にはたちゆかないやりかたですが、とまれひとつのやりかたです。

とはいえこれも楽ではなく、「ぶっちゃけ」る前段として、自らの行為が他人に感じ取らせうる欲望を予見して、それを予め織り込んで引き受けておく必要が生じます。こんなことをやったらこう見られるだろうなあ、と思っておいて、「織り込み済みです」と言わんばかりに、「こんなふうに見えるでしょ? 実際そうなんですよ! 見て見て!」と。

これはこれで嘘の気配を漂わせるものです。心の沸き立つまま自由に、というわけにはいかないでしょう。謂わばナマの与件を一度反省するからには、或る種の直接性は失われています。直接性や単一性を「本音」の要件とするなら、どこまでも嘘になるでしょう。見せきったつもりでも見せられなくて隠す箇所は当然ありますし、以ってさらに背後を探られたりする可能性もあるかもしれません。メイキング動画が全てを明かさず、アニメのBDについてくる制作風景に係る説明が全てを明かさないことはやはり明らかで、その点を捉えてさらに問いが課されうる、ということです。

しかし少なくとも、ぶっちゃける、あるいはぶっちゃけ感を演出することで贖われるものはあります。それは相手からの予期せぬ反応が少なくとも小さくなる、ということです。


……とは言っても、この2つの方策はいずも、厳密な反省に基づいて、意図せぬ意図を読み取られる原因となる表現の総体と、個人的な意図とを一貫させるということに存しています。そうして、不幸な行き違いの芽を摘む、ということが核にあります。その差は見せる範囲と隠す範囲をどうとるか、という量的な差に存します。

厳密に見せる部分と隠す部分を分割するのが前者で、見せる部分を増やしてゆくというのが後者です。

難しく感じられますか。いや、内容としては簡単です。いずれにしても、自分の表現がどういった効果を生むのかを再帰的に考えて統御してみる、ということですし、「人の身になって考えてみれば良いんじゃないですか」ということが前提にあります。

「裏」や「本音」を一片たりとも感じ取らせないか、あるいは読み込まれうる「裏」や「本音」と、「表」や「建前」を溶融させてひとまとまりの「本音」として表現するか。

実践することが簡単であるかどうかは別にして、そうしてみることが、不幸な行き違いからくる心労や、ときには言った言わないの不毛な争い、の芽を摘むことにつながるのではないかということです。