見出し画像

【252】心の中のお天道様を増殖させる

一週間くらい人と全く会話をしなくても平気で生きていられる人間ですが、それでも身づくろいは欠かしませんし、起きている間は寝間着でうろつくこともなく、服をきちんと着ています。無精ひげを生やしっぱなしにしておくこともほとんどありません。

別に誰が見ているわけでもないのだから良いのではないか、と思われるわけですが、ちらと鏡に目をやって、無精ひげにまみれた顔が映ったとしてもあまり愉快ではない、というのが理由のひとつかもしれず、つまり鏡の向こうの私が見ている、と言うことはできそうですが、鏡の向こうの私は果たしてどこまで「私」なのでしょうか。

そんなことから出発して、自分が既に持つ「お天道様」、つまり(起源はどうあれ)内面化されている諸要素を信用すること・自分の内面ばかりを見つめることの愚について。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


外に買い物に出るにせよ、今はマスクで顔を全部隠しているからには、髭がボーボー生えていようが誰も気にません。誰に対しても失礼にあたらないようにも思われるかもしれませんし、実際そうでしょう。

しかし、髭がボーボーに生えているのとちゃんと剃っているのとでは、私の側で気持ちが違うわけです。

ある意味では、マスクがない時代の一般的な社会の規範を既に内面化して引き受けている、という成り行きです。

身づくろいを整えることにもそういった面があって、誰の目に留まっているわけではなく、別にきちんと服を着ていたところで誰も見ている人はないのですが、それでも着ている、というのはある意味で、私がひとりで住んでいる30平米の狭いマンションが既に社会になっているわけですし、その中ではひとりでいるときでさえ、或る種の外的な規範を受け入れて生活しているという成り行きです。


このようにしてみると、皆さんが日頃を当然だと思っていること、あるいは当然だとさえ思わないこと、実のところ外部から与えられて、納得するもしないもないままに受け入れている、という考え方や広義の規範が極めて多い、というかほぼ全てがそうである、とは思えないでしょうか。 

もちろん、良い悪いは別の話です。受け入れるべきである受け入れるべきでないとか、外部から与えられたものは自分のものではないからよくない、とか申し上げたいわけでは全くありません。

例えば人を殺してはいけないとか、人の物を盗んではいけないとか、あるいは人を出し抜いて自分の利益を得てはいけないとか、そうした多くの人が当然のように抱えている、あるいは抱えていて疑問に付すことさえしない感覚というものは、実のところ小さい頃の教育の賜物である、それゆえ外部から与えられたものであるようにも思われます。これを種の保存等へと秩序づけられた本能へと還元するのは勝手ですが、言語化され命題化されているからには、諸々の規範はどこまでも後天的なものです。

あるいはもっと後天的な度合いが強いといえそうな観念としては、「お金は額に汗水たらして獲得するものだ」とか、「お金は汚いもので、お金のことばかり考えるのはいやしい」という考え方があるでしょう。

割と多くの人が持っているものですが、これはもちろん概ね小さい頃から、あるいは若い頃から受けてきた或る種の教育の賜物であって、自分の内側から自然に出てきたものだと考えるのは早計、というか誤りでしょう。


何度も言いますが、自分の中から出てきたものでないから悪い、というわけでは全くありませんし、外部から課せられている、あるいは本能から外れたところで継承された広義の規範や知識を各々が内面化して共有できるということが、人間の或る種の進歩の一つの重要な要因にはなっていると思います。

というより、外との関係において始めて自分なるものが構成されるのは当然のことです。マルクスが『資本論』第1巻で言及するように、人間は「私」として最初に定立されているわけではなく、「人間はまず他人の中に自分を映す(bespiegeln)」のです。bespiegelnというドイツ語の動詞は、「鏡」を意味する名詞Spiegelに関連しています。極めて通俗的に表現すれば、他者・外部を通さねば自分を見出すこともできないということですし、観念はすなわち精神の実体ですから、他者・外部を通じて「私」が作られるのです。


こうして、あくまでも外部に淵源を持つ、内発的な必然性のないものが多く各々の精神のうちに内面化されている、という側面は、は考慮しても良いように思われるのです。

これはもちろん、『監視と処罰—監獄の誕生—』において、フーコーが規律権力論の枠組みにおいて述べたことと重なりますし、あるいはそこで参照されるベンサムのパノプティコンの議論でもあります。

円形に独房が配置された監獄を思い浮かべてもらって、その中央に監視用のやぐらを建てることを考えていただけるとよいのですが、中央のやぐらに実際に看守が立っているかどうかということは囚人の目からは分からないわけですね。しかしそれでも、囚人は看守に監視されていると思って自ら行動するようになる、つまり或る種の規範を内面化して生活するようになる、という成り行きです。

こうした構造は実に、社会の端々に、皆さんの生活の端々に潜んでいるように思われます。私たちは心の中に看守を、あるいは警察官を、判事を飼っているわけです。

善悪の問題ではなく事実の問題です。寧ろある側面においては、そうした規律を無意識のうちに受け入れて生活することでこそ社会が回っている、という面は強いでしょう。


「お天道さまは見ている」という言葉を本当に言葉通り信じて、何らか人格を持った者が自分を監視している、と考えている人は現代社会では稀かもしれませんが、実にそうした言葉が或る種の呪いないしは拘束になるわけです。

私たちは社会や歴史から見た悪事を咎める「お天道様」を精神のうちに置くことで、実際に実行力を持った警察官や司法権力に見られていない場所でも、心や体にブレーキをかけるようになるわけです。これを先天的な本能に還元することはできるにせよ——実に中世哲学に淵源を持ち18世紀に華々しい発展を遂げた自然法や良心(conscientia)に関する議論は此の点に関わります——、後天的な度合いの強い、後天的としか言えないものもおおいにあることでしょう。


ここから申し上げてみたいことはさしあたり2つあります。

ひとつは、自分が当然だと思っていることが実はやる必要のないものである可能性がある、ということです。

つまり、外部から与えられた価値観は極めて強いものなので、ひょっとしたら受け入れる必要のない部分まで受け入れているかもしれない、ということですね。

先ほどの例で言えば、例えば「お金は汚いものだ」などという考え方は、早々に捨てておいたほうが、資本主義社会で生きていくには極めて楽でしょう。


またひとつは、「自分の気持ち」とか、「自分のやりたいこと」とか、「自分の本心」とかいうものを自分の中に探そうとするのはほどほどにしましょう、という話です。

実に自分の中にあるものから、納得してやりたいと思えることや、自分の目標・自分の本心のようなものが自然に出てくるというのは全くの誤謬であって、それは自分の知識や自分の経験を過信する所作にほかなりません。

ですから、何か道に迷ったときに、沈思黙考して少し考えてみるのは別に良いにしても、即座に外部にお伺いを立ててみるという態度、本であれ人間であれ外部の情報を参照してみるという態度が、実に有用ではないかと思われます。

もちろん私たちの内部には、既に蓄積された規範や考え方があるわけで、それを否定することは難しいはずです。

しかし、自分が何らか道に迷った時や困ったときには、そうして蓄積されたものが、私たちの「お天道様」が機能不全を来している、ということでしょう。

そういった場合には、沈思黙考するのではなく、外部のものを参照することでこそ、自分がこれまでに積み重ねてきたものとうまく響く、そしてさしあたりゆくべき方向を定めてくれる新たな「お天道様」を導入できる可能性が大いに高まるでしょう。

それはとりもなおさず、自分の本心とか自分の考えとか自分のやりたいこと自分の望みみたいなものがある自分の中にあるのだと考えての行き止まりに行き着かないための一つの方針になるように思われます

あるいは、蛇足めかしながら付け足すなら、「迷っている」「困っている」と自覚できていればまだよいのですが、外的な・物質的な生活がなまじ上手くいっているために、自分が不都合な方向に進んでいることにさえ気付いていない場合もあるからには、コンスタントに外部と接して、新しいお天道様候補を導入しつづけることもまた必要になるのでしょう。

■【まとめ】
・人間は純粋に自分の内面から出てきた価値観や考え方のようなものに即して生きているわけではありえず、避けがたく外部から与えられた規範や考え方を内面化して、その起源を問うことさえ忘れて生きている。

・であれば、自分が当然のように受け止めている考え方が、実は従う必要がないものである可能性もある。

・加えて、(客観的に存在するはずもない)自分の本心や自分の望みというものを探し当てようとするときには、沈思黙考するのではなく、寧ろ外部の情報や外部の目線というものを積極的に導入しつつ、手さぐりで進むことが必要になるのではないだろうか。

この記事が参加している募集