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【339】「プロの素人」になりたいものである

昨日書いた記事——【338】プロかつアマでありたい? ふたつの語源を介して——の一つの核となっているのは、「アマチュア」という言葉の背後にあるのが「愛する(amare)」ということだ、ということでした。

つまりアマチュアという語については、(語の源へと強いて遡るのであれば)、プロに対するネガとして存在するのではなく、つまり「お金を稼がない」とか、「技術的に十分でない」とか、「真剣でない」とかいう否定的な仕方で規定されているというよりは、寧ろ対象を「愛する」という意味を見いだすことができきるのだ、ということを通りがかりに指摘しました。

これはこれで極めて重要だと思いますが、一般的な意味での「アマチュア」という様態、つまり「素人」と言われうるような様態もまた、単に否定的な意味しか持たないわけではありません。先取りするなら、「プロのアマチュア」であることにもそれなりの分がある、と考えています。

そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


小手先の技術や運だけで生き延びている人は別にして、私たちは何らかの分野で確たる技術やセンスを高めて、それで名をあげるかどうかは別にしても、人間関係の中で信頼を得て生活を営んでいく、ということになるのでしょう。

その意味で、何らかのかたちで「プロフェッショナル」になることは非常に重要であると考えています。(もちろん、この「プロフェッショナル」という語については、極めて素朴な意味しか見ていません。)

しかし、その分野にのみ身を置いている、つまりあることにかけてはプロであってその他のことについては何も知らず無である、ということについては、そうした生き方もあるとは思いつつ、私は個人的にはそうしたくないという気持ちでいます。

寧ろ様々なところを見て、しかし覗き見るばかりではなく、実際に足を伸ばしてみる、ある分野ではプロフェッショナルでありつつも、常にどこか別の分野では素人でありたい、あるいは常に自分が素人であるような場を持っていたい、ということです。

繰り返すようですが、「自分の専門以外のことは何も知りません」と言って開き直るとか、そこまで行かずとも敬して遠ざけるとかいう、或る種自閉的な態度は。私の望むものではありません。

それは結局、プロとしての自分が別の分野を尊重しているというだけで、それはそれで極めて重要な態度ですが、単なるオブザーバーないしは観客・聴衆としての態度です。

そうではなくて、私は(あくまでも私は、という個人的な気持ちとして)、対象を選ぶとはいっても、アマチュアとして積極的に参入し、アマチュアである自分という側面を持っておきたい、ということです。


こうした態度の効果はいくつかあると思いますが、ひとつには増長することを避ける、という機能があると思われます。

どんな人でも、専門的な能力や技術というものを様々なかたちで持っているわけですが、そうした専門性を直接的に活かせるところにおいてのみ積極的な活動をして、他の場所についてはオブザーバーない観客として関わっているのみだと、どれほどアンテナを高く持っていて、本や人との対話の中で情報を得ているとしても、その専門性のうえにあぐらをかくおそれがあるのではないか、と思われるわけです。

そして、そのような態度を持ちながら、他の分野や他の専門性に敬意を抱くということは、もちろん不可能ではない(それどころか必要でさえある)にせよ、実際に自分が非専門家として生きているということを強く実感する場面がなければ、他の専門に対する敬意というものも、なかなか身に迫ったものとしては育みづらいように思われるのですね。  

外野は外野であって、聴衆や観客などは「お客様」であって、はっきり言ってどうでもよい存在ですから、何をしても赦されてしまうのです。「お客様」の側もわかっているわけで、だからこそ、おおっぴらにするかどうかはともかく、野次を飛ばすなどするわけです。

その「お客様」はスタジアムを出れば別のところでプロとしてやっているわけで、そこでは確たる立場を持っていることでしょう。こうなると、増長を食い止めることは、よほどの克己心と自律性がなければ極めて困難でしょう。私にその自信はありませんし、この点に自信を抱ける人はすごいと思います。

ですから、自分が常に単なる観客・単なる外野の聴衆としてではなく、一応は片足を突っ込んで素人として関わっている分野を、つまり上に人がいて凄まじく敬意を払いつづけることになる場を、常にいくつか持っておきたいと思っています。


もうひとつ重要なのは、上に述べたことと明確に区別できるものではありませんが、文脈を常に拡大していたい、ということです。

もちろん、手当たり次第広げたり、無節操にいろんなものをやり散らかすのは良くない、と思われる向きもあるかもしれません。実際、無際限に城郭を拡張していれば本丸の警備が手薄になる、というのは真理でしょう。

が、興味関心に従って外野からチラ見するよりも、もう一歩進んで実際に自分で体を動かしてみる、ないしはプロを模倣するかたちでアマチュア・素人としてでいいからやってみる、ということは、質の点で極めて濃厚な経験になるように思われるというわけです。

ピアノを聴くのはよいけれども、実際に弾いてみるのとはまた違うわけです。ヨガのポーズを見るのはよいけれども、実際に体を動かしてみればまた経験が得られるわけです。絵画を見るのと、実際に描いてみるのとでは、経験の質がまったく違うというわけです。

こんな具合で、単なる自分の専門以外についても、「ちょっとは知っている」ということを超えて、自分の精神の中に多様な文脈を養うことになるのではないか、と思われるのです。


このプロセスは、永遠に反復してこそ意味があるように思われます。

言い換えるのであれば、アマチュアであること、ないしは素人であることに関してプロでありたい、ということです。

或る分野でアマチュアであるとしても、技術面で真剣に取り組んでいれば、プロに近づく面はあるでしょう。もちろん職業的にやっている人とは精神的な体制がそもそも違う、ということは言えるかもしれませんが、表面的な技術は、少なくともを向上していくことと思われます。

そうなったら、それはそれで身につけた技術や態度としてとっておけば良いわけですが、しかし能力が高まりました、という成果のみをもって、文脈の拡大を止めたくはありません。

客観的に見てある程度の水準に達してしまった技術や能力や態度をたくさん持っているのはそれはそれでよいのですが、どこかで安住してしまうと、先ほど述べたような増長に陥る危険性がないわけではない、と思われるのですね。

であれば、新しいものへと手を伸ばしつづけ・不案内なところへと足を向けつづけたいものですし、そうすることに関して、つまり未知のところへと歩みだすことに関して、優れた見識を持って取り組みつづけていきたいと感じられる、ということです。

これを言い換えるのであれば、「素人であることに関してプロでありたい」ということになると思います。

もちろん、皆さんにもこのようになってほしいとか、これになるべきだとか申し上げるつもりはありません。例えばひとつの道に邁進して専門性を高めて、他の分野に関しては通り一遍の知識を持っているだけでよく(あるいはそれ以前の知識さえ持たず)、そこに向けて体を動かす必要などない、と思われるのであれば、それはそれで真実でしょう。問題は特にないと思います。

とはいえひとつの見方として、「プロのアマチュア」であること、「素人であることにかけてプロである」ことは成立しうるものですし、そこにも一定の分があるんです、ということを書いた次第です。

■【まとめ】
・常に慣れない分野に身を置くこと、自分が素人である場を持っておくことには、増長を防ぐこと、多様な文脈を持っておくこと、という果実が見込まれる。

・個人的には、そうして常に素人である部分を持っている、ということについてプロでありたいものである。