【260】自らの傾向性を振り返らねば、正しい方法論は選べない

「事務作業絶対許さないマン」への生成変化を遂げて幾星霜、Graeberではありませんが、少なくともbullshitではないようなことをメインに据えて生きていたいとは思いますが、どうしたって目の前にbullshitな要素はあるわけですし、「嫌だ、嫌だ」と喚いていても仕方がありません。

ひとつひとつ倒して、全て倒していけるような仕組みを作って行くほかないわけです。そのためにはどうすればいいんでしょうね、という話から。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


私はとかく事務作業の類が苦手です。細かいデータをポチポチ打ち込んだり、あるいは書類の角と角を合わせてしっかり整頓してホチキスで閉じたり、そのような作業は極めて苦手です。

傍から見て片付いているように見えるかはともかく、研究や仕事や生活に必要な範囲ではものをきちんと整理整頓できていますし、自分では何がどこにあるかはっきりわかっているのですが、他人と共有可能なかたちで物を整理するというのはあまり得意ではないのでなく、それと同じように、細かい事務作業の類も極めて苦手としています。

とはいえ事務作業というものからは、我々は一定程度は逃れられない運命にあります。

そしてこのくらいの年齢になると、また在外研究を行なっているというある種特異な立場にあると、日本にいる知り合いとのやり取りの中で、とききには日本にいる知人に自分の手続きを代行してもらったり、日本にいる知人がフランスで行わなければならない手続きを私が代行したり、という相互扶助の関係が成立します。


この中でじわじわと気づきつつあることですが、私は人のためにやる事務作業、つまり頼まれてやる事務作業であれば、正確に手早く片付けることができるようです。

これに対して、やらなくても自分にしか迷惑がかからないタイプの事務作業に関しては、どうしても着手が遅れがちである、という事実が確認されるようです。

これは面白い現象です。

もちろん面白がっている場合ではなく、自分の事務作業は自分で片付けられるように仕組みを作っておくことが極めて大切ですし、実際私はいろいろと仕組みを作ろうと試行錯誤していますが、それはそれとして面白いのです。

自分の利益のために、あるいは自分の不利益を防ぐために事務作業を行おうとするとどうしても腰が重いのに、他人から頼まれて他人のために事務作業をやるとなるとすんなり素早くいく、というわけですね。

ここから自分の行動に関する一般的な仮置きのモデル・行動原理として、「自分のためという動機では動きづらく、他者のためにこそ力を発揮できる」というものを立てても、間違いにはならないでしょう。

もちろん、「他人のために何かをやる」ということの背後には、「他人から受けている信頼を損ないたくない」という自分本位の動機があると言えるのかもしれませんし、この解釈も誤りにはならないでしょう。このようなかたちで人間のひとつひとつの行動や、その背後にある「動機」をすべて「自己の利益」に還元するタイプの議論は、極めて強い統一性と一貫性を持っていて、かなりの説得力を持つものかと思われます。

しかし——これは私の単なる直感ですし、皆さんに受け入れてもらえるとは思っていませんが——このようなフィクションを認めたくない、認められないタイプの人間もいるのではないか、と思われるのですね。

もちろん私の「無意識」のようなものを繊細に覗こうとしてみれば、私は信頼を我が身の制度上の利益よりも重んじているから、自分のものだとダメなのに他人の事務作業は簡単にできるのだ、という説明を行うことが可能かもしれません。

しかし、「無意識」という語を俗流生物学チックな「自己の利益」と重ね合わせるタイプの説明は、多少なりとも精神分析学をかじった人間には物足りなく思われることでしょう。

物足りないからといってもう一段、二段掘ったものとて、客観的な正しさを持つことは稀かもしれませんし、言語的説明であるからには必ずなにかを取りこぼすのですから、どこかで納得する必要があります。

さしあたって——自分の欲望や動機に関する言語的分析は、永遠に「さしあたって」のものです——自分の行動を分析して、さしあたって納得いくように説明するという観点から言えば、少なくとも私にとっては、自分の利益へとすべてを回収する議論を振り回すのではなく、寧ろ、「自分のためだけだとと頑張れないけれども、他人が絡むと頑張ることができる」という事態を読み込むのが適切であるように思われるのですね。

つまり、人を絡ませてこそ生まれる強制力や拘束があり、それが私をして人のための事務作業に対して素早く対応せしめているのではないか、というフィクションが立つわけです。


こうしたフィクションが立ったととすれば、ここに反映されていると思しきメカニズムを前提しつつ、実践的な対応策を練ることになります。

私が上に示した解釈は、もちろん一個のフィクションであるからには、必ずしも完璧に事実を言い当てているのものではありません。しかしこれは、一個の当座の解釈として、物事を回していくためのモデルとしては機能しうると思われるのですね。

このモデルに貼り付いているのは、例えば本来純粋に自分のためでしかないものについても、他人を巻き込んでしまうことで確実に遂行できるようになるのではないか、という観念です。

例。 ……もちろん私が代理人を立てて日本で行う事務作業というものは、自分のためのものでしかないわけですし、やらなかったところで自分にしか迷惑がかからないものです。「だからこそ」あまり力が入らない、という推測が、フィクションとして成立するのならば、そこから、事務作業の過程に無理矢理にでも他者の利益を絡め、それに対する自分の責任を発生させればよいのではないか、というわりあい具体的な仮説が立つわけですね。他者を絡めることで、より確実かつ迅速に事務作業をこなせるようになるのではないか、という仮説が立つというなりゆきです。


具体的な仮説が立ったら、次は具体的な方法に移ることになるでしょう。他者を巻き込む方法にはもちろんいくつかあります。

例えば、自分では絶対にとりたくない方策ですが、私に経済的に依存するパートナーを作るということが一つの可能性として考えられるかもしれません。

事務作業というものは、多くが回りまわって経済的なものに結びつくわけですから、自分の経済的な状況に依存するパートナーがいるのだとすれば、そのパートナーのためと思ってあらゆる事務作業を完璧にこなすようになるかもしれないということです。

あるいはそうでなくても、私が日常的に誰かを雇用する、ないしは業務を委託してそれに対して謝礼を払う、というシステムを作っておくというのも良いかもしれません。

どういうことかと言えば、私の事務作業が回らなくなれば、その人たちに対して謝礼や給与を支払えなくなるわけですから、その人たちへの責任を果たすという意味で、事務作業を完璧にこなす、ないしは外注して遺漏のないようにする、ということになるのかもしれません。

もちろん以上のような方策は、様々な意味で正しいかはわからないものです。実践可能性があるかどうかも、うまくいくかもわかりません。そもそも元にある仮説が正しいかもわかりませんし、「仮説が正しいとすれば効果が出るかもしれない」程度の方策の例として挙げているわけです。これらは実験してその実践的価値を吟味し、適宜修正すべきものです。

以上をまとめるなら、「自分のためだと腰が重い事務作業でも、人のためならすんなりできる」というフィクションを仮置きで立ててみて、それに基づいた実践的な仮説を立てて、いろいろと方策を考えて実験してみる、そうしたプロセスを踏んでいるわけです。


抽象化するなら、

1.自分がどういった論理に従って動いているか・自分の行動の原理をフィクション(モデル)として描き出す

2.そうしたフィクションに基づいて、具体的な問題を解決するための具体的な仮説を立てる

3.仮説を検証するための具体的な方策を考案し、実践する

4.戻って再びフィクション・仮説・方策を吟味し、実行する。

というプロセスです。

もちろん順番は前後するはずですし、実際には泥縄式になるわけですが、中でも重要なのは1.における或る種の自己分析で、この点があってこそ適切な仮説・適切な方策を立てられるのではないでしょうか。

私たちは他人のための方法論や、客観的に正しいはずの解決策には容易に思い至るのですが(そしてそのような方法論は随所にあふれているのですが)、殊に自分という特殊であまりにも身近な存在が持つ、特殊かもしれない行動原理・前提条件にはなかなか注意を向けられないからです。

芸事であれスポーツであれ勉強であれ、多くの場合、「やればよい」というだけのことなのですが、そうした単純な指針が上手くいかないからこそ悩みや閉塞感が生じうるわけです。

明白な方策が有効ではない理由は場合によって異なりますが、「あなた」という極めて特殊な条件を無視しているということが理由ないし原因になっている場面は、なかなか多いように思われます。

つまり、あなたはどのような行動の原理を持っていて、あなたはどのように考える傾向があるのか、ということを無視しているがゆえに、一般的で当然の方法論がうまくいかない、ということはないでしょうか。

実にこうした過程、つまり自分の行動原理を反省して言語的に説明するということが、問題解決のための仮説を立てて、それを自ら検証していくというプロセスの前提に置かれるのではないでしょう。

逆向きに言えば、仮説以前の自分の行動モデル、大まかなフィクション、ないしは仮置の見取り図を立てるという段がなければ、仮説や方策は空中をさまよう不確かなものになってしまうのかもしれません。

締め切りを設けて事務作業をサクサク抹殺していくというのが常道ですし、私もタイムアタック感覚で気合を入れて楽しみながら片付けることとはあります。しかし他方、私の場合には、他人から頼まれたものであればすんなりできるという傾向もあるわけで、こちらの事実を出発点としたモデル=フィクションを立てて、効果的に対応していくことも考えられるというわけですね。

■【まとめ】
・生活の細かい部分を改善し、良い方向へと向かっていくためには、先ず以って自分の行動を振り返り、その説明原理として適切と思われるモデル=フィクションを紡ぎ出すことが前提になるのではないだろうか。

・そこから初めて、より良いと思われる状態に結びつくような仮説を提示し、それを複数の方策を介して身をもって検証していく、そうした地道なプロセスを意図的に継続していくことができるのでははないだろうか。