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【478】フィクションの果実(2):社会契約の白いキャンバス

政治思想におけるフィクションとしておそらく最も際立っているのは、社会契約論(とその背後にある自然状態)かもしれません。極めて大雑把に言えば、自然状態にある(とされる)人間が契約に基づいて或る種の政治体制を樹立する(そしてインペリウムを譲り渡す)という図式ですが、これは17世紀以降の政治思想の一個の主流とも言えるものです。

少し文脈や内容は違いますが、ロールズの「原初状態」もまた、当然のことながらフィクションです。

フィクションだというのは、そんな状態が現実に存在していたわけでもなければ、そこに明晰な契約があって政治体制が樹立された、という主張も妥当しないからです。


世界史の教科書で、あるいは政経倫理などの授業で、ホッブズやロックやルソーを見たことがあるという方は多いかと思います。彼らの名前を見たときに、特に思想の内容を全く気にかけず「社会契約論」という言葉だけ覚えたという人もいれば、もう少し踏み込んで内容を見てみたという人もいるのでしょう。

特に中身を少しは見てみた、という人からすれば、「何を言ってるんだこいつら」はということになったのではないでしょうか。

人間がプレーンに存在していて、そこから契約を結んで国家を樹立する、などということは、明らかにフィクションであり、嘘だからです。というのにこのフィクションに根ざした考え方が、近代国家の形成に強く影響し、また現代の政治体制のありかたにまで影響を及ぼしている、ということに驚愕を覚えるのではないでしょうか。

そうした驚きを覚えるというのは当然のことだと思いますって社会契約というものは事実としては全く存在するはずがないからです。大胆な言い方になるかもしれませんが、社会契約論に基づいて政治体制を構想する、ということはとりもなおさず、おとぎ話に基づいて現実の政治の在り方を模索する、ということにほかならないわけで、この事実に気付いた人はいささかならず驚きを覚えたのではないでしょうか。しかも、実際にこれが国家の根になっているわけです。フィクションが現実的な効力を持っているわけです。フランス革命もアメリカ独立もそういう流れを汲んでいます。

極めて素朴な、極めて悪い意味において科学的な考え方に基づくのであれば、要するに事実を出発点にしていないヤバい発想だというわけで、ではなくて寧ろ説得力はあるけれどもどこまでも想像上の産物でしかないところから理想像を立ち上げているわけで、そこに


フィクションだからダメだ、現実を描くものではないからダメだ、ということにはまったくならないでしょう。いや、現代に至る政治思想が、近代国家がだいたいダメだ、空虚で愚かだ、と主張したいのならそれでも良いのですが(そして実際、まったく問題がないと言うことは難しいと思いますが)、ほんとうにフィクションが無力で、無意味で、無価値で、抽象的お遊びに過ぎないなら、当時最高の頭脳を持っていた人々がそうしたフィクションに訴えていたはずはありません。

寧ろ錯綜した現実を一旦カッコに入れる、しがらみや不透明性を少なくとも観念のうえで遮断することを可能たらしめる点には、フィクションの圧倒的な力があります。現実の側から理解可能ではあっても現実とは幾分異なる地平に、真っ白なキャンバスに絵を描くかのように、理屈と理想を描くということです。なるほど絵は絵ですが、絵は現実のうちに支持体(人によっては「マチエール」なんて呼ぶこともあるでしょう)を持つわけで、現実と無関係ではありえません。絵を描く我々は、キャンバスや絵の具は先ず以って現実に位置を占めています。或る種の絵の理想が現実を模倣することにあるとすれば、現実の理想的な行く末は絵において示されうるというなりゆきです。

政治体制がどのようにあるべきか、ということを想定するにあたって、何も手が加えられていない自然状態というものをフィクションとして打ち立て、そこで人間たちがどのような形式での契約を結ぶかを考えることを通じて、理想的な政治体制のあり方を模索する、という思考の形式が、こうして一定の力を持つものとして認められて共有されていました。


逆に言えば、混沌たる現実を圧倒的な所与として持ちつづける限り、現実を抜本的に更新するための指針も見つからない、というのもまた事実だと言えるでしょう。

現実がどん詰まりであるからこそ思想家たちは各々或る種のフィクションを想定したのですし、そのフィクションというものは現代に至るまで力を持ちつづけることもあるというなりゆきです。フィクションだから軽んじてもいい、おとぎ話だから力を持たない、ということには、決してなりません。フィクションが提示する価値や理想を私たちが受け止めて肯定するかどうかは別にしても、現実から高く遠くずれたところに描かれるフィクションは、思わぬ観点をもたしてくれるというなりゆきです。

素朴な意味での生物学的所与をいくらこねくり回しても、人権概念はでてきません。国家や民族という範疇も、物的事実からはほとんど独立です。別に国家とか政治とか、そういった大きなものでなくても、個々人の生活においてほとんど同じ水準においても同様で、高い理想というものは現実から直接出てくるというよりは、フィクションに由来する部分が大であると言えるのかもしれません。


「現実を見ろ」とはどのような分野においても言われることです。何か問題があるときに現状を確認する作業は大切です。が、錯綜した現実からは、病を抱えた身体からは、理想的な健全さを構想しにくいのも事実であり、つまり指針というものを想定しづらいのかもしれません。そこで役にたちうるのがフィクションだということでした。

こうしてフィクションは抜本的な効力を持つわけですが、もちろんこれ以上の果実もあります。補足的な点にならざるをえませんが、法学におけるフィクション、つまり擬制については、多分ちょっと見ておく必要があるでしょう。