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【815】先行する訳書を見る態度

先日仕事で英語のテクストを読んでいて、解釈が割れる場面がありました。

その際にとるべき戦略は、基本的には自分たちがほとんど直感的になした解釈について、事後的に厳密な理屈をそれぞれ与えることです。辞書や文法書や他の用例を根拠にする必要がありますし、その用い方も公共性のある・自他にとって納得のいくものでなくてはなりません。(というか、他人を説得できなさそうな解釈というものは、自分にとってもほんとうは納得のいかないものです。)

そうして厳密に解釈しようとしたときには、自分の当初の解釈が補強されることもあれば、あるいは自分の感覚に従った読みが思わぬかたちで破綻していることを知ることもあるでしょう。もちろん後者のモメントが可能性として残されていない場合、その人は読解という作業に、あるいは知的活動そのものに向いていません。自分が正しいと決め打って行われる作業は知的なものでなく、寧ろ権力のゲームです。

自分の誤りを修正する可能性は常にあるのですし、修正することはまったく恥ではありません。ある個別事例において誤っていたからといってその人の他の言説がすべてダメだということにはなりません——いやもちろん、誤りつづけているとか、あまりにも深刻な誤りがあるとかいう場合には、他の点においても誤るのではないかと推測されますが。謬見に固執するよりは、即座に自分の誤りを認めるほうがよほどまともな態度と看做されるでしょう。逆に言えば、致命的な誤りは起こさず・誤りを修正することはなんらマイナスではない(寧ろ誤りであることが確定した場合には修正することが唯一のイーヴンな態度である)、ということが前提される人間同士でなければ、健全なコミュニケーションは不可能です。


さてほとんど直感的に、あるいはそこまで厳密に調べずに行った解釈を見直すときには、基本的には上に見たように文法書や辞書を見直すのですが、副次的には既存の訳を確認する、ということがよくあります。今回も邦訳のほか、スペイン語とドイツ語とイタリア語の翻訳にあたりました。

既存の翻訳はもちろん決定的な権威にはなりません。特にいわゆる一般向け教養書——学術書や古典との区別のもとにこう書いています——は、さっさと訳してさっさと出すことが求められているので、特定分野の専門家が厳密さに気を配りながら訳すというものではなく、とりあえず横になっているものを縦にすることが求められます。つまり能力と時間の面でおおいに制限があり、ときには訳者もその不完全さについては自覚的です(寧ろ自信満々だとすれば無知で無学としか言いようがない、というレヴェルの訳に溢れていますし、訳の難しさを自覚しない訳者に訳す資格はないでしょう)。

わかりますか? ハラリとかダイヤモンドみたいに、学的根拠がほとんどないけれども知的っぽい何かを大づかみに示しているかに見える、そして知性に自負心を持つ・自分は周囲とは一味違うと思っている人々が読んでありがたがる本のことです。もちろん、そういう本を面白いと思わなくなる(あるいはそういう本を読むとしても、与太話の類であるとはっきり認識する)ために高等教育があるのですが、その意味では高等教育はおおいに失敗しています。

とはいえこういう類の、内容としては読むに値しないものは、大学の入学試験の課題として選ばれることがしばしばです。別にこれ自体は問題のないことです。英語の運用能力は、文章が内的に一貫していれば、内容の価値や正しさとは別に計測できます。クソみたいなことを言っていても、一応内部で整合性がとれていて文法や語法の面で崩れていなければ、正答を持つ読解問題を作ることは可能ですし、能力を測って振り分けるという目的のためには上手く機能することもあります。寧ろ価値のある内容を持っているとかえって試験問題としての採用が難しくなるケースはしばしばです。これはもちろん受験現代文(や小論文)でもそうです。そして、こうした教養書は日本に限らず様々な国でよく訳され、よく読まれています。

おおいに中途半端な訳が色々と出ているわけで、それらは参考になるというなりゆきです。


なぜ・どのように先行する訳書・既に世に問われている翻訳を見るのかと言えば、それは内在的な論理を完成させるためにそうするのですし、そういった作業に役立つように参照することになります。

文章を解釈するときには基本的には内在的な論理(と、ごく一般的な論理や単なる知識——文法的条件や、辞書を含む)で処理するのですし、特に訳を作るときには概ねそれだけ完結する、ということが理想です。少なくともここまで持っていく努力をしなければ、独力で精度の高い処理を行えるようにはなりません。

とはいえ、内在的な論理(と一般的な論理)だけでやり抜こうと思うと、自分の手持ちの語彙や知識によっておおいに制約されます。もちろん知識や語彙や表現力は永遠に不十分なままですから(「そうではない、私は完璧だ」と言うような人は、あまり賢くないでしょう)、誰であれ先行者がどういったアウトプットを・どういった論理を以って行っているのか、ということは参考になります。

上に見たようなたいして洗練されていない翻訳であるとしても、それなりに考えて職業翻訳家や一定の専門家が作っているわけで、見るべきところは必ずあるのですし、少なくとも一定程度relevantであるというケースがほとんどです(河出書房から出たヴァシェの翻訳のように、問題外としか言えないものはさしあたり除きます)。訳者はそれぞれ一貫している(と仮定される)からには、各々の論理の中で示された解釈には見るべきものがある(可能性がある)。

言い換えるなら、既存の訳を参考にするというとき、表層的に「表現を参考にします」というだけでは全く足りない。既訳の表現のひとつひとつの背後に駆動しているであろう論理を確認すること、見破ろうとすることが求められます。その論理をさらに文法書なり辞書なり他の事実なりをもとに検討して、受け入れうる部分、受け入れられない部分などを確認する。その作業の中では、自分がさしあたり設けた解釈、さしあたり読み取った文(章)の内在的論理、etc.が比較検討されます。

たとえば、原文の表現からは直接出てくるとは思われない表現を用いて訳されているケースは多いものです。そういう場合には、「これは読みやすくしようとしたんだね〜」などと無反省に受け容れるようなことはしない。もうちょっとつっこんで、何か(訳者すら意識していなかったような)意味や効果が期待されていた、と考える。

もちろん結果としては「読みやすさ」が期待されていたのかもしれない、と思われる場合でも、どういう意味での「読みやすさ」が期待されているのかを考える。何故そうすると「読みやすい(と訳者は考えた、と思われる)」のか、そうした補完を認めるためには周辺をどう解釈しなくてはならないのか、あるいは周辺の(多少無理があるかもしれない)解釈を補完するためにこそ、原文にない要素が補われていたのではないか、と疑う。一箇所の差は全体を貫く差に繋がるという当たり前のことを常に思い出す。

重要なのは、外在的な根拠(その一例としての先行する訳書)をもとに読み進めるにしても、それらを一旦受けとめたうえで、しかし内在的に一貫した論理は徹底して探しつづける、ということでしょう。既存の訳は十分に参考にしてよいけれども(そして、特に新たに自分で訳を作って世に問うとなれば、当然読んでいなくてはならないけれども)、その文面だけ引っ張ってきてパッチワークを作るのはよろしくないということです(いやときには、既存の訳こそがそうしたパッチワークなのですが)。それは解釈でもなんでもない、ただのキメラです。煮魚に何も考えずにブールブランのソースをかけて「和風フレンチ」を名乗るようなものです。食べられたものではありません。

他の人が読み取った内在的論理を、あるいはそこに生じている破れを、とりあえず受け止めてみる。どういう意味で一貫した論理が読み取られているのか、一貫させるためにどういった解釈や操作が成されているのかを見る。それが、自分の読み取った内在的論理とどう異なり、どう一致しているのかを見る。そうすることで、自分の読み取りの致命的欠陥に気付くこともあれば、寧ろ自分の解釈の適切さを確証することすらできるかもしれない。あるいはたいして重視していなかった要素に改めて目を向けることができるかもしれない。そうした作業を経て、あらためて内在的に一貫した論理を持つ解釈を、ときには訳を構築する。

……概ねそういう作業のために既存の訳を見ます、という当たり前の話です。