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【287】筋肉見せたがりピーポーとの和解?

Twitterにせよあるいは個人ブログにせよ、自分の筋力トレーニングの成果を全世界に公表している人は、思われるほど少なくはないようです。

個人的にやっている人ももちろん多いはずですし、私の知識はもちろん限られていますが、それなりの人口を持つボディビルディングという競技は、日頃から筋肉を鍛え、その成果を競うものではないでしょうか。

ボディビルディングは、ほとんど裸になり、しかも体に油など塗って、(一定の規範・価値観に従うという意味で)肉体を美しく見せようという競技で、実に興味深いものです。

私はボディビルはやったことはもちろんありませんし、ボディビルをやっていた三島由紀夫の著作は好んで読むにせよ、三島に感化されてボディビルを始めたり、見せつけるための筋肉を鍛えたりすることには全く興味を持てませんでした。

筋肉に限らず、そもそも広義の持ち物——顔にせよ、服を着た肉体にせよ、経験にせよ——を誰かに好き好んで見せつけるということには寧ろ消極的でした。だからFacebookの顔写真はありませんし、写真も殆どアップしません。YouTubeなんてもってのほか(笑)。

「ま、そういう人もいるよね〜」くらいの、「自分とは全く違う、火星人のような存在だなあ」くらいの思いでいました。

ところが……、という話です。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


「ところが」とは言っても、もちろん私自身がボディビルに目覚めて、これから頑張って大会に出ようと一念発起したわけではありませんし、今すぐYouTubeにうってでようというわけでもありません。

しばしばこの場でもヨガをネタにしますが、その中で体が作り変わっていくという実感はあり、実際肩こりは全くしなくなりましたし、長時間座ることによる腰の痛みもほとんどなくなりました。

もちろん、そもそも椅子や机、キーボードやディスプレイをはじめとした作業環境を整えていたからこそ、という面はありますが、それにしても随分体のありかたは変わりました。

目に見えない効果だけではありません。元々の体が極めて貧弱だったこともあって、ヨガのように目に見える筋肉を鍛えるわけではない運動をやっていても、特に前鋸筋の発達が著しく、目視できるくらいに盛り上がっているのですね。

何をしていてそんなことに気づくかと言うと、シャワーを浴びる前に服を脱いで、鏡に映った自分の脇の下の辺りの筋肉が異様に盛り上がっているのに気付くわけです。これまでであれば絶対にそんなことはしなかったのですが、前鋸筋に力の入るポーズを鏡の前でとってみて、「お、ヤバい」「前鋸筋盛り上がってるな」と思って、数十秒費やすことがたまにあります。

もちろん、自分の前鋸筋の写真を公表しようという気にはなりませんが、ともかく自分の身体を愛して、自分の体に眼差しを向けることについては、ここ半年で大きく見方が変わったという具合です。


あるいは、ヨガの最も外的な現れであるアーサナ(ポーズ)についても、日々の練習でうまく決まったときなどは、動画でも撮っておいて仲間内のTwitterにでも投稿すればよかったな、などと思われることはあるわけです。

ウッターナパーダーサナのように、視角的に自分の体の具合を把握しづらい(腕と脚を平行にしたいけれども、目で確認できない)場合には、スマホやタブレットを複数使って頑張って撮影しながら練習することもあるのですが、面倒なので、基本的には動画を撮りません。

が、そういうことではなく、たとえばウッティタハスタパーダングシュターサナが上手く決まったときとか、マリーチアーサナDが深く入ったときとかには、幽遊白書ではありませんが、「すべからく見よ」という気持ちになるものです。

たまに自分で撮影したものを、ヨガを教えてくれる友人に送って見てもらうということはありますが、ヨガのことなど何も知らない友人に送りつけ、見せつけたいなという思いが兆すことがある、ということです。

もちろん、さしあたって、全世界に公表しようとは思いませんよ。私はヨガで身を立てているわけでもなく、そうするつもりもありませんし、必要もないでしょう。

自分の体を撮影して写真を共有したり、動画を全世界に公表したりする人たちの気持ちが完全に分かるようになったわけではないにせよ、まあ部分的には分かるようになってきた、という次第です。


抽象化するのであれば、自分のものの見方や価値観は時を経ておおいに変わるわけですし、もう少し解像度を上げるなら、何かで上手く行きはじめたら、成果を見せびらかしたり語りたくなったりするのも当然のこころの動きなのかもしれないと思われた、ということです。

もちろん、ヨガにせよ筋力トレーニングにせよ、誤った体の動かし方を喧伝することは、他の人の身体的な健康を害する可能性があるので厳に慎んだ方が良いと思われます。勉強や純粋に知識が関わる領域においても、勉強の中途半端な人間が誤った知識や方法論を公表している例はよく見られ、それははっきり申し上げて知に対する深刻な犯罪なので、絶対にやめたほうがいいとは思います。

が、少なくとも、恐らく人間が何かを身につけようとしていく過程で、その身に着けた成果を見せびらかしたくなる気持ちがある、ということは徐々に実感されつつありますし、これはおそらく事実でしょう。

そうした傾向が誰にでも少なからずあるのではないか、と思われるわけですし、あるいは見せびらかされる「成果」の類は体の良いエクスキューズに過ぎず、何であれ見られたい気持ちのほうが先にあると考えてもよいのではないか、とさえ思われるわけですね。

でなければ、儲かりもしない同人誌を赤字覚悟で出す人ももっと少ないはずですし、自撮りを全世界にわざわざ公開するような(危険な)真似をする人もそう多くはならないでしょう。


問題は、見せびらかしたくなる気持ち/見せたがりな気持ちが、おそらくは誰にでも(少なくとも萌芽としては)ある、ということを踏まえたうえで、自分が何をどのように見せびらかすか、あるいは他人の見せびらかしにどのように付き合うか、ということを考える作業なのかもしれません。

誰しも見せびらかしたがりな面を持つのだと思えば、はっきり申し上げてわざわざ愚かなことを言っている人に対しても少しは優しくなれる面があるのでしょうし、健全な諦めの気持ちを持って接することができるかもしれません。いたずらに心をかき乱される機会が減ることが期待されるかもしれません。

あるいは、自分に少しはあったのかもしれない見せびらかしたがりな気持ちにも、ときに無意味なブレーキをかけずに、ゴーサインを出すことができるようになるのかもしれません。

あるいはさらに、控えめな方は特に、自分にも出たがり・見せたがりになれる場所があるのではないか、という疑いを持つことができるでしょう。

こうした疑いの何が良いかといえば、おおかたどこかしらから見られなければ、あるいは見せびらかしていかなければ、人間関係というものは成立も発展もせず、極めて狭い意味における活路も開かれないからには、多少なりとも下賤であるかもしれない、極めて本能的な部分について、「有用な」思い込みを持っておくことが実に「有用」だからです。

言い換えるなら、自分も見せたがりかもしれないな、と思うことにして、恐る恐る見せびらかしているうちに、生活や人間関係が富んでくることがありうるのだろう、ということです。

■【まとめ】
・自分も含め、誰にでも見せたがりなところがあり、その声質から逃れることはできない、と考えておくことはできる。

・そうした発想は、少なくとも見せて見られねば或る種健全に生きることが難しいからには、少なくとも有用である。