見出し画像

【293】私の歌を聞け!(『アイカツスターズ』における『Dreaming bird』から)

もはや時宜を得ない感はありますが、これを新年の挨拶ということにしておきます。内輪向けに書きはじめたのですが(だからこそ平素採用している敬体でなく常体ですが)、思えば内輪に向けて書けることは外向きにも書けるのでした。

とりあえず言っておけば、『アイカツスターズ!』は、起源からして年若い女性が消費するために作られたものかもしれませんが、実に残酷な、それゆえに多くの輝きを秘めた作品です。amazon prime等で見られますので、テクストを読むことに興味のある方は是非。

今回振り出すのは読解ではありつつも正当な分析ではない、ということだけは最初に断っておきます。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


『アイカツスターズ!』において、病弱なアイドルである白銀リリィが歌う『Dreaming bird』は、彼女の戦い方を示したマニフェストである。

6拍子、3拍子、7拍子、4拍子が入り乱れた曲は、果たして対象年齢に見合ったものだろうか、と思われるほどに複雑かつ巧妙で、また歌詞が見せる世界も実に成人した人間の鑑賞に耐える。

歌詞において歌い手は、自らが「鳥カゴ」に囚われ、「折れた翼」を見つめているという状況を踏まえ、「すべての傷を癒やす女神にはなれなくても」、「もう大空を飛ぶことはできな」くても、それでも「手のひらに残された」ものを活かすこと、つまり「青空の向こうにいるあなたへと歌う」運命を掴み取る。

単純に歌詞のうちに個人史を読むことが許されるなら、白銀リリィは病弱な体質によってそもそもアイドルとしての活動に大きな制約を課されており、その限定された手札を活かすことに活路を見出す。

実に「今ある手札で戦うほかない」という趣旨ないし単純化された教訓をここに読むなら、実に日頃口ずさむにふさわしい曲であると言える。ただし拍子が気持ち悪い——これは褒め言葉である——が。


それ以上に面白いのは、『アイカツスターズ!』本編の特に19話以降を貫く「個性」のテーマ、ないしは39話以降を貫くGoing my wayという標語が、物語において極めて不利な条件に立たされ、しかも敗北を運命づけられたリリィ(と桜庭ローラ)に残された唯一の道であった、ということである。

つまりリリィの『Dreaming bird』は或る種の敗北主義ないしはconformismeの類である。良い悪いは別にして、そもそも身体的条件の克服は絶対に目指されない。

王道を行くことができたのは、製作者に愛された虹野ゆめとエルザ・フォルテのみである。とりわけエルザが率いるアイドル学校であるヴィーナスアークが、個性を圧殺しているようにすら見える、極めて理にかなった、画一的な、トップダウンの教育方針を採用していたことは興味深い。どれほど枠にはめてみてもはまりきらないものが個性として析出される、それがヴィーナスアークのモットーである。

これは一定のレヴェルにおいては絶対に正しい。強いて言えば、術や説のレヴェルでは絶対に正しい。疑いようがない。例えば学校教育には、創造性などというものを引き出し認める以外の役割りが確実にある。それは画一化の作用である。高校数学や高校英語くらいのレヴェルで「創造性」がどうのこうのと言われても困るのである(これは大学入試において採点官が受験者の創造性に全く興味を持たないことと通じる)。痛くても苦しくても、詰め込むものは詰め込み、模範通り確実に身につけねばならない。

ただし各々が歩む道となれば、術や説の利用に関しては取捨選択やグラデーションが認められる。たとえば身体的条件に恵まれなければ、身体を活かす道を捨てる。頭に恵まれなければ頭を活かす道を捨てる。そうした選択が効く。随所で搦手を採用しうる。ゲリラ戦を展開しうる。

白銀リリィは「鳥カゴ」に、病弱な身体という「個性」に、王道を行くことを阻まれた。物語の設定の時点で敗北を運命づけられた桜庭ローラが(リリィの助けを得て)見出したのは、Going my wayという標語であるが、これも彼女の道(her way)であるからには、絶対に王道ではない。桜庭ローラは歩みかけた王道を正しく外れて、新たな道を作りはじめたのである。

私たちは世界に愛されて生まれ育った者に、大手を振って王道を歩く者に勝つことはできない。私たちには固有の鳥カゴがある。私たちの翼は折られている。

ただし、問うべきことがいくつかある。

果たして王道を歩める者は今の世にどれほどいるのか。無傷の翼を持って空に羽ばたいている者はどれほどいるのか。

「鳥カゴ」は寧ろ唯一の福音、自らの限界とありうべき方向を告げ知らせるものではないか。

こうした問いに答えることはしない。

しかしキリスト教神学における原罪のテーゼを踏まえるならば、あるいは1900年の時を挟んで著しく発展した精神分析学に訴えるなら、あるいは単なる実感を信じるなら、人間は誰であれ壊れ物で、惰弱で、どうしようもないものであって、つまり固有の鳥カゴに囚われて、翼を折られている、と言えなくもない。そのくせ鳥カゴの向こうにある大空を夢見ることができる。想像力があり、果てしない理想を思い描けるのに、その理想に自らを服従させることもできない。そうした途方もない弱さに囚われている。

私たちは「逃げ出さずその場で歌う」ほかなく、「手のひらに残されたもので何が出来るかを見届けていかなく」てはならず、身体を届けられないのならば「この歌声だけでも届け!」と想って歌うほかない。

あけましておめでとうございます。

■【まとめ】
私の歌を聞け!