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【808】原因において自由な行為

「自由と責任は表裏一体」ということを言いたがる人は大抵の場合に個人の権利を圧殺したいだけで、権利と義務をバーターで考えるような人々ですが(つまり自由を含む諸権利を義務を果たすことの対価として見たがる、控えめに言って西洋型の法-政治システムを抹殺したいタイプの人々ですが)、ごく狭い意味での自由は概ね責任の根拠になります。

というのは、自由になされたことについてこそ責任が生まれ、責任の所在を認められてこそ(古典的意味での)刑事裁判が有意味に機能するからです。たとえばローマに過失犯の概念が存在しなかったことは啓発的です。

責任の概念についてはおおいに混乱が見られるものの、それは場合によって大きくなったり小さくなったりするもので、たとえば心神耗弱状態——自らの行為とその帰結について考慮し、自由に選択する能力が弱められている状態——においてなされたよくない結果に対しては、刑罰が減じられる・免じられるということがあります。「責任能力」の問題です。


判断力が弱められている、つまり自由が損なわれている状態の一例には酩酊状態があります。では、酩酊状態で車両を運転して事故を起こした場合には、素面で事故を起こした場合よりも刑が軽くなるのでしょうか。「酔っていたから上手く運転できなかった、減刑!」ということになるのでしょうか。

いや、もちろんそんなことはなく、寧ろ別様の罪状でより重く罰せられることになります。所謂危険運転致死傷罪はもうしばらく前から運用されています。

これは直感的には当たり前のことで、それでよいのですが、事故を起こした瞬間のみならずその原因を構築した瞬間にもまた着目する、という論理によって解決されます。「原因において自由な行為(actio libera in causa)」を考えるということです。

飲酒運転によって事故を起こした場合、それは「原因において自由」と捉えられますが、何故かといえば、(危険な状態で車両を運転することを見越して)飲酒をするという判断は自由になされているからです。なるほど酩酊状態で事故を起こすとして、事故という結果に繋がる酩酊状態を作り出す瞬間には自由だったということです。

似たような例としては、「違法薬物を摂って、判断力が鈍った状態で、ある人物をナイフで刺そう」と思って、ナイフを準備しその人物を呼びつけたうえで違法薬物を摂り、そして実際にその人物をナイフで刺すケース、が考えられます。

ナイフで刺す瞬間の責任能力はともかく、違法薬物を摂ること・ナイフを準備することは(つまり「ハイになった状態で刺して危害を加える」という結果に対する原因を構築する要素は)自由に実施されたのであり、これらが自由に採用されたからには結果に対して完全な責任を負うということです。


さて、飲酒の例を別の方向に伸ばしていくと、酩酊している状態で偶発的に起こした何かしらの問題はしばしば大目に見られます。「まあお酒の席のことだから」「酔っていたんだから仕方がない」などという(馬鹿げた)論理によって擁護されるということです。

「原因において自由」か否か、という観点が、上の飲酒運転の例ではうまく機能するのに対して、こちらのケースで機能しない(させない)ことがありうる、ということにはいくつか理由があると考えられます。

ひとつは、そもそもの結果が責任を問うべき深刻なものとして観念されていない、ということです(原因が自由か不自由かがそもそも問われない、なぜなら結果のほうが論ずるに値しないから、という論理)。

またひとつは、結果を原因(≒飲酒による酩酊)から予期できないものとして想定している、ということです(酩酊したらカクカクシカジカの帰結が当然生じる、とは想定できない、という論理)。

このうちの前者についてはともかく、後者についてはいや待てよと思ってみてもよいように思われるものです。

たとえば、酔ったときに何かしら「本音」が漏れてまずい言動をとってしまうのだとすれば、酩酊の原因を作る飲酒という行為を厳に慎むべきでしょう。それが「原因」を遠ざけるという意味で責任を持つことです(もちろん、慎もうと思える人であれば酔ってもそうそう変なことはしないと思いますが)。いや、本音はどういうものであってもよいのです。というより、「本音」などというものは本人にとってすら統御不可能なものですから、その部分を統御することなどできないのです。その上で、表現を行うか否かについては酔ってさえいなければ判断を行えるが、酔うとその判断を行えなくなる、と思われるのであれば、少なくとも人と接する場においては酔ってはいけないのです。

自分が酒を飲むとまずい表現をとってしまうかもしれない、ということを素面のときに・酒を飲む前に判断できるとするのなら、「酒を飲まない」という選択はそれこそ自由にできるのですし、「酔っていたから」ということは言い訳にならないでしょう。飲酒運転によって事故を起こしたときに「酔っていたから」と言い訳をすることを我々は無茶だと思うわけですが、それと同じです。


飲酒という例は際立っています。判断力をすぐれて鈍らせる行為だからです。

が、一般に何が何の原因になるのかはわからないのですし、逆に言えばすべての結果に対してそこそこ私たちは「原因において自由」でありうるとも言えるでしょう。

謂わば日常に酩酊を持ち込むような行為を自由に選択する権利はもちろん我々の手元にあります。

youtubeで無限に動画を見るのも自由ですし、クソみたいな陰謀論に染まって(あるいはそれを喧伝して)時間を溶かすのも自由です。

しかしそうした諸行為が、積極的-実定的に、あるいは消極的に、私たち自身や周囲に何らか悪影響を及ぼしうるということはありうるわけで、その意味において果たして生活にどこまでの酩酊を持ち込むか、ということには敏感であってもよさそうなものです。

日常の一挙手一投足は自由ですが、それは何かしらの原因として、一定の帰結を招来するからには、その自由を(それゆえ責任を)はっきりと観念してみるということが考えられるということです。