【6】言語の破壊的効果と治療的効果:自らを見出し、自らを救う(Vanessa Springora, Le consentement)

※以下、引用はすべてV. Springora, Le consentement, Paris, Grasset, 2020からです。然るべき人間の手で翻訳されるべき書物だと思います。


2020年1月、フランスで衝撃的な著作が発表されました。

『同意(Le consentement)』と題されたその自伝的小説において、作者であるヴァネッサ・スプリンゴラ(Vanessa Springora)は、性交同意年齢に達する以前より作家ガブリエル・マツネフ(Gabriel Matzneff)に与えられてきた性的支配を描いています。

マツネフはフランスでは極めて著名な作家であり、文学賞も受賞してきたうえ、出版社からも援助を受けてきました。その傍らで、というよりは著作の取材元として、マツネフは言葉巧みに(多くの)少女たちを誘惑し関係を持ち、またフィリピンで少年買春を繰り返していました。そして、一連の経験を日記や小説というかたちで出版しつづけてきたのです。ある意味ではそのあけすけさがウケたのか、またスプリンゴラの言うところでは、1968年周辺の自由の空気が容認し寧ろ推奨したからか、文壇では高い評価を得ていました。そんな彼の少女たちとの関係は公然の秘密であり、マツネフはラジオの収録にスプリンゴラを帯同することさえしていました(p.106以下)。

スプリンゴラのはたらきもあって、出版に前後して、これまで文壇で、また知識人の間で黙認されてきた、マツネフの数々の悪行が問題視されるようになりました。
2020年には彼は訴追され、書簡や原稿を持つ出版社や、マツネフが(半ば逃げるように)滞在していたイタリアのホテルも家宅捜索を受けています。

文学界に対する影響は凄まじいものです。たとえばマツネフの(実体験を元にした)日記は、フランスで最も権威のある出版社のひとつであるガリマール(Gallimard)社から出版されていたうえ、日記を含む叢書「アンフィニ(L’inifi)」は、著名な文芸批評家フィリップ・ソレルス(存命)が主幹です。そのため、マツネフの日記を批判するということは、ガリマール社とソレルスの責任を問うことにもなるのです。
(それにしても、いまガリマールの同叢書のページを見てみると、最もよく参照されている書籍(Les plus consultés)のところにマツネフが出てきますね。http://www.gallimard.fr/Catalogue/GALLIMARD/L-Infini)

自伝という体で告発されたスプリンゴラの件については時効が成立しているようですが、それでもこの著作は、マツネフのグロテスクとも言える態度や、文芸界・知識人の闇の一部を告発することに成功しています。
たとえば、ニュースにもなっていますが、『同意』では、若き日のスプリンゴラが、ルーマニア出身の哲学者であり当時パリに住んでいたエミール・シオランに助けを求めた時のことが記述されています(p.139-142)。シオランは要するに、マツネフという芸術家の少女への偏愛は変わらないからお前は芸術のために耐えろ、と少女に訴えかけるのです。……


軽薄な関心から面白がって扱って良いたぐいの著作でないことは承知しつつも、『同意』は興味深い著作だ、と言わざるをえません。

作品が持っている目的、つまりマツネフ(の著述)と彼を擁護してきた環境を糾弾するという目的が先立つからか、少し過激とも思われる記述が見られますが――たとえば、p.165に見られる、ナボコフの『ロリータ』がペドフィリアに対する断罪だ、というのは、少し言い過ぎかなと思われます――、価値は損なわれません。

抽象的に言えば、表現の自由や文化財の保護と、個々人のプライヴァシーとの緊張関係を問題として浮かび上がらせる著作です(もちろん、「プライヴァシー」では響きが軽すぎるかもしれませんが)。
マツネフの日記が実在の少女との性交渉を描いていること、マツネフと少女たちとの書簡が(少女たちにさえ)参照の難しい資料として文書館に保管されていること、などを、スプリンゴラは当事者として問題視しています。
現実に取材するフィクションと現実との関係はフィクション論において常に問題になるはずですし、この観点からも、自伝による告発という手段は、実に興味深い。

また、人間が理不尽な仕方で支配されていく過程を描く物語というものは、(個人の嗜癖として)目が離せないところがあります。(性質は全く異なるにせよ、安部公房『砂の女』も理不尽な捕縛・監禁・精神的支配の話といえる部分があり、私が好んで読むところのものです。)

とはいえこれらの点は、言及するには重すぎるところがあります。
マツネフに対する告発としてスプリンゴラを読むなら、マツネフの膨大な著作を読む必要が出てきますが、
スプリンゴラの告発を読んだ後となると、マツネフの著作は読んでいて気が重くなります。

……なので、いくつか興味深い点を上げるにとどめます。
単体でも私には興味深い著作だったので、これでさしあたり満足するということです。

●(概ね)現在形であること
先ず、スプリンゴラがマツネフによる支配を受ける前も、最中も、支配を逃れた後も、現在のことも、地の文は基本的に現在形で書かれています。複合過去・半過去によって書かれた回想めいた節もありますが(たとえばp.128-131)、寧ろ例外に属します。
日本語だと現在か過去か、くらいの観点しか無いかもしれませんし、いわゆる「時制の一致」の観念がないので曖昧ですが、フランス語ではこの点は目立ちます。
ことこの著作に関して、この点は単なる書き癖として済ませて良いものではないと思われます。
というのも、文法的に過去の事実としないことで、(相当程度マツネフの支配の痕跡を抹殺したとはいえ)彼女の物語が過去と地続きであること、描かれている「支配」は終わった出来事ではない、「痕跡」としてどうしても効力を持ち続けていることが、反映されているのだと考えられます。
(なお「支配(L’emprise)」は第3章の、「痕跡(L’empreinte)」は第5章のタイトルです。)

(この点、つまり若い日のよくない経験が後々まで強い影響力を持ち続ける、という点については、多く思うところがありますが、軽い気持ちで類推を働かせるのを慎みたい気持ちのほうが強いです。特にスプリンゴラの場合、交渉が途絶えてなおマツネフが攻撃を加えてくるなど、一定程度特殊な状況があります。)


●名前の省略
わずかな例外を除いて、スプリンゴラ本人はV.と、マツネフはG.と記載されます。
V.はVanessaでない、とか、G.はGabrielではない、とか言うことは、テクスト解釈としては可能だと思いますが、事実上無理でしょう。それくらいには、現実の対応物を強く示唆するものです。(たとえばフローベールの『ボヴァリー夫人』において、主人公であるEmmaについて、Emma Bovaryとは一度も書かれていない、ということを出発点にしながら何かを言うことは可能ですが、目下見ているスプリンゴラの著作についてそうした手法を取ることは、さしあたりしませんし、あまり意義が大きいものではないと考えています。)
これは単にフィクションっぽくするとか、ちょっとぼかすとか、そうした意図からではないと考えられます。
では、なぜわざわざV.とかG.とか、略すような表記を取ったのでしょうか。

少なくともV.(つまり作者本人)については、次のような記述が参考になります。

私はG.(≒マツネフ)が公式のウェブサイトを持っていることを見つけ出す。そこには、彼の経歴と作品の年表と、彼が手中に収めた女性のうち幾人かの写真がある。その中には14歳の私を映した写真があり、説明文として、かのV.という頭文字が置かれている。今や(désormais)私のアイデンティティを要約する頭文字だ(書く手紙すべてに無意識にそうやって署名するほどである)。(p.185)

V.という省略表現は、こうして、マツネフによって与えられた支配の表現でありつつ、また痕跡の表現にもなっています。

こうして味わうことになっていた、自分自身のうちの一部分が省略されてしまっている、自分自身が全的な存在でない、自分が現実に位置を占めていないという感覚については、特にマツネフの支配を逃れようと苦しんでいた時期にこそ、かなり明確に描かれています。p.174-177の深刻な症状です。そこでは明確に「離人症」という言葉が用いられています。

私はいったいどれほど前から自分自身の痕跡を見失ったままでいるのだろう? どうして私は、自分が「死刑」に値すると信ずるほどに罪悪感を溜め込んでいるのだろう? 少しもわからなかった。(…)髭をはやした男(=医師)は漏らした。「あなたは精神病的な症状を経験したばかりです。離人症(dépersonnalisation)の段階もあった。(病室にある)カメラは気にしないでください。寧ろ、どうしてここに辿り着いたのかを聞かせてください」「では全ては、本当なんですね? 私は……フィクションではないんですね?」(p.177)

次にも見ますが、支配の帰結としての離人感、あるいは広く言って不安定な症状は、少なくともテクストが示唆する限りでは、マツネフが彼女を書物の中に描いたということと無関係ではありません。


●書物の機能:破壊と凍結/再発見・再構築・救済
スプリンゴラの著作は、本人による相当の整理の結果で、一定の精神分析的構図によりかかりすぎている感がないとは言えないが、それでも重要な証言で、記録です。

特に書物の持つ機能については、際立った記述がなされている、と考えられます。

先ず、マツネフに描かれることで、スプリンゴラはある意味で書物の世界に凍結させられます。

ようやく自らが自由だと私が信ずるにいたると、G.はそのたび私の痕跡を見つけ出して、彼が及ぼしていた支配に再び力を与えようとする。私は大人であろうとしても無駄である。目の前でG.の名前が発されると、私は凍りついて、彼に会ったときに私がそうであったところの思春期の少女に戻ってしまう。生涯に渡り(pour la vie)私は14歳だ。書かれてしまったからには(C’est écrit)。(p.184)

マツネフと性的な関係を持ち、またマツネフのフィクションや日記の題材にされるということで、スプリンゴラは書物の世界に閉じ込められていく。14歳の少女の姿のまま、書物の中に断片化されてとらわれてしまう。

V.は本をずっと読んできた少女です。詳述しませんが、たとえばp.35あたりでは「読むことに対する際立った嗜好」があったとされています(あとはp.25-26あたりも、マツネフに出会う前の記述としては重要でしょう)。
そして、さらにマツネフによって本の素材にされることで、もはや彼女の全存在が書物に、書物に支配された存在になってしまう。自分自身がフィクションであるかのように感じられてしまう。「私の体は紙でできていて、私の血管にはインクしか流れておらず、私の器官など存在しなかった(…)私はもはや物質的世界に属していなかった」(p.174)と言われる所以です。
リセ(高校)にようやく復帰し、「レールの上に戻る」ものの、「自分が空白の頁であるように感じる。空っぽ。頼りない(sans consistance)。赤熱された鉄の刻印が消えない」(p.178-179)。 ここでもやはり、書物に関連する比喩が用いられます。

……
しかし、書物が、書くという作業がかくも破壊的な力を持つとすれば、書物は同時に、驚嘆すべき治癒力をも持ち合わせているのです。

おそらく私は、手探りで、なにかを修復しようとしている。しかし何を? どのように?私は自分のエネルギーを他の人が書いた文章のために費やしている。無意識に、私は依然として答えを、私の歴史=物語(注:仏語histoireは双方の意味を持つ)の散らばった欠片を、探している。そして謎が解けることを私は待ち望んでいる。「小さなV.」はどこに行ったのか? 誰かがどこかで彼女を見たろうか? しばしばある声が奥底から湧いてきて私に囁く。「本は嘘だ」と。私の記憶がかき消されたかのように(注。マツネフの記述が虚偽に満ちていることを前提していると思われる)、私はもはやその声に耳を貸さない。時折、稲妻が走る。細部というものはそこかしこにある。そうとも、まさに、私が思うに、それは行間に、言葉の背後にある、私の小さな欠片である。そこで私はこぼれ落ちているものを拾う。集める。みずからを再び組み上げる(reconstituer)。卓越した薬となる本もある。そのことを忘れていた。(p.183-184)

マツネフがスプリンゴラを小説や日記に利用し、自らの物語のうちに組み込んでいたとすれば、スプリンゴラが自分自身というものを取り戻すにあたって利用することができたのも、書物でした。(マツネフの書物、ということではなく)他の書物に紛れ込んでいる、かつての自分を想起させる要素を取り上げ、そこから自らを再構成していくことができるのです。

さらにスプリンゴラは、自身について書く、という作業を経ることで、失われていた自らの一貫性(consistance)を取り戻すことができる。マツネフが書くことで少女たちを、スプリンゴラを切り刻みつつ物語を作ったとすれば、スプリンゴラは同じく書くことで、自らの断片を組み直して、自らを主人公とする新たな物語を編み上げることができるのです。そうして、空虚で頼りなくなっていた自己を取り戻すこと、これが、書くという作業の大きな効果です

最終的なかたちで私の怒りを沈め、私の生きてきた履歴のうちの一部を手中に収めたかったからには、書くことはおそらく最良の治療薬であった。(…)私の愛する人こそが、最終的にはそうするよう説得してくれた。なぜなら書くことは、再び私自身の歴史=物語の主体になることであったから。長いこと奪い取られていた物語である。(p.202)

もちろん、スプリンゴラの戦いは終わっていません。
マツネフは罰されていませんし、マツネフを見逃してきた文壇や知識人も多くは保身に走るか、口を噤むかです。また、性的虐待の横行する領域として彼女があげる「教会」もまた、年長者による性的虐待の場として、俎上にあげられています(p.193-194)。
しかし書くこと、物語るということが、彼女にとって決定的な救いになったということは、少なくとも彼女の認識においては、どこまでも真実でしょう。



翻って、我々もまた、読み、書くことで自分を取り戻すことができるのではないでしょうか。
スプリンゴラのように深刻な経験を経ていない場合であっても、訳しれず不安に苛まれたり、自分が何を欲しているのかよくわからなかったりする、ということは、それほど珍しいことではないはずです。
そうした場合には、さしあたり盲滅法でもいいから、読んで、書いてみることで、何かが変わることがあるのではないでしょうか
(もちろん、然るべき診療機関にあたるのが良い場合もありますし、私はなんであれ物事の医学的価値を語る立ち場にはありません。)
読む・書くというのは、小さい頃から本に親しんでいたスプリンゴラの場合には、書物を相手取る行為でした。
しかし私たちについては、それぞれに適した「読む」、それぞれに適した「書く」があるのかもしれません。それは無論、経歴に依存します。
(もちろん、言語というものは(まさに「理屈」のことですから)全てにくっつく点・再帰的認識に用いることができる点で際立った力を持っており、人間の活動において際立った位置を占めており、だからこそ「読む」「書く」といった、言語的営為に根ざした比喩を用いているのですが。)

「いいや、私には確固たる自分があって、取り戻す必要などない」とおっしゃる方も、きっと読み、書くことと、その作業が必然的に伴う解釈と反省によって、自分の姿を違ったところから見つめ直せるのではないでしょうか。それはもしかすると大変なことかもしれませんが、きっとその価値はあるでしょう。

読むことと書くこと、それはもちろん物質的な意味においては役に立つことではないかもしれませんし、まとまった時間をとることなしには難しいことです。
しかし、少しでも自分に納得しながら生きていくという、単に物質的な効力を超えた精神的な価値に、強く強く結びつくことではないでしょうか。