【271】精神の成長痛:心の軋みを楽しむ

体が著しく成長する中で激しい運動をしていると、骨の特に先端が痛むようです。よく成長痛と呼ばれるこの現象について、私はもちろん専門家でも何でもないので、詳しくは知りません。体験したことすらありません。

なので、あまり立ち入ったことを申し上げるのは気が引ける面がありますが、少なくとも成長するにあたって、それも著しく早い速度で成長しつつ動かねばならないとあっては、一定の痛みが生じうる、そうしたことは恐らく精神的な範囲についても言えることでしょう。

そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


身体的にはおそらくは成長しきってしまった私たちが、精神的な意味で、あるいは知的な能力やセンスといった範囲で成長を遂げる場合にも、「成長痛」と擬されうるものがあるのではないでしょうか。

つまり私たちは、何の痛みもなく成長したり、新しい考え方や技術を身に付けたりするということはないのでは、と思われるということです。

少なくとも実態として、既にある程度確立された精神のありかたが亀裂を立てず、軋まず、作り変えられずにいるのなら、いったい何が成長で、いったい何が変容なのでしょう。


「心が軋む」と言うと、「胸が痛む」という表現とほぼ同じ意味を表しうると考えられ、このような表現は悲恋を描く歌に用いられそうなものですが(そして実際、ある悲恋の歌に「心が軋む」という表現を見つけたからこそこう書いているわけですが)、実に皆さんはおそらくは、なんらか成長しながら、あるいは変容を遂げながら生きていこうとされているわけです。

その中にあって、自らの心が軋む音を、あるいは脳のどこかの目に見えない部分がキイキイと音を立てていることを、日々感じていらっしゃるでしょうか。

もちろん「軋む」というのは一つの表現に過ぎないわけですし、成長することが楽しくて仕方がなくて痛みを全く感じない、という方もいらっしゃるかもしれません。成長痛は必ず起きるものではありませんし、それと同じく、技術を身につけたり、精神的な意味での変化があることによって、必ず痛みが生じると主張するものではありません。

しかし少なくとも、これから新しく何かを身につけようと思い、これから変わって行こうと思うのであれば、そしてその傍らでやはり仕事やが学業に力を発揮しつづ付けるのであれば、当然負担はかかるわけで、そこで痛みが生じうる、というのは当然であるようにも思われないでしょうか。

ある程度凝り固まってしまっている精神を内的に変化させつつ、外部にあってはこれまで通りのパフォーマンスを続けるということですから、痛みが生じ、軋んだ音を立てるのも当然のことでしょう。こうした事情は、少なくとも想定しておいて良いのではないか、ということです。

使い古された言い方をするのであれば、成長には痛みが伴われるということですし、この点は何にせよ念頭において損はしないでしょう。


身体の場合と違って、精神的な領域においては、ことさらに成長しなくても私たちは生きていくことができるでしょうし、ただ生きているだけで成長する、というものでもないでしょう。

もちろん、トータルで人類は進歩しているという人があるとしても、おそらく多くの人の(少なくとも斜陽国家・日本の人々の)個人の実感ベースの考えとしては、このままのうのうと生きていくことはできず、このまま生きていてもジリ貧になって、様々な意味で貧しいところへと転落していくのみだ、という危機感を覚えられている方も少なくないと思います。

私もこうした立場をとっています。これは単なる悲観主義ではなくて、悲観的・防衛的な態度をもったうえでの(私の目からみて)現実的な判断ですし、何も備えずに没落していくよりは、徹底的に備えていたけれども何も起きなかった、というほうがよほどよいでしょう。過剰な防衛・予防は、それが無意味であると事後的に判明したときには滑稽に見えるかもしれませんが、それでもいいではないか、ということです。

この点を踏まえるのであれば、精神的なレベルで成長しようとしない・変わろうとしない・変化に対して柔軟な姿勢をとらないのは、完全な悪手であるように思われるのですね。

(繰り返しますが、あくまでも私がそう思うということです。)


であれば私たちは、心を軋ませる覚悟を、心が軋む音を聞きつづける覚悟を持ったほうがよいのではないでしょうか。

仮に成長し、変化し、技術やセンスを身につけながら、心がいっさい軋みを立てないのであれば、それは嬉しいことでしょう。

しかし、価値のある、困難なことであれば、特に学び始めにあっては苦労やフラストレーションが絶えません。

であれば、始めるときに必要なもののひとつは、心がきしむ音を聞き続けることを覚悟してことに当たる態度なのかもしれません。

実際にこのように覚悟を決めてみれば、おそらくは日々軋みを立てる心に耳を傾けるのも、それはそれで痛い耳を塞ぎたくなるような経験であるとは言っても、そこそこいい経験になるでしょう。心が軋んでいるということそれ自体を、将来の果実をもたらす営為に勤しんでいることの証左とみとめて、密かに喜ぶことができるかもしれないからです。

最初から痛いものだと思っておけば、そしてその痛さが自分の糧になるのだと思っておけば、その痛みすらも楽しむことができるようになるのではないか、ということです。


そして、この痛みというものが、もはや痛みと感じられず、ある屈折したかたちで快楽へと短絡されれば、「全自動成長機」としての私たちの精神の体制が確立されることになるでしょう。

実に、ある事柄におけるパフォーマンスが最も向上し、トータルで豊かになるのは、手段が自己目的化するときであり、つまり目的へと秩序づけられていた、キツかったはずの手段や経路というものそれ自体が楽しくなったときです。

ある高校や大学に受かりたいという目標が共通しているとして、苦行だと思って勉強をしている人と、楽しんで取り組んでいる人のどちらができるようになるかと言えば、おそらくは後者でしょう。容易に想像がつくことと思われます。 

そうして楽しめたときににこそ極めて大きな成果が出るのですから、心が軋む音さえ快く感じられるようになるまで自らの精神を鍛えていきたいものです。

そしてそのためにまずもって必要なことのひとつは、つまり痛みと楽しみを短絡するところまで行き着くための必要条件のひとつは、心は軋むよね、当然痛いよねという或る種の諦め、ないしは覚悟を持つことであるように思われます。

■【まとめ】
・常識や偏見を寄せ集めてある程度固まってしまった精神が成長して変容する中では、嫌な音・きしみが立つ可能性がある。そのような嫌な音を聞く覚悟が、成長して変容していくためには必要であろう。

・そのように覚悟を決めておけば、心が軋む音さえも快く感じられるようになるかもしれない。

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