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【256】「東大生は勉強しかしていないからダメなんだよ!」という言葉でさえ、評価(への感情)は振り返りを促してくれる

人と接していると、当然のことですが、様々な評価が下されます。言語的に明確な形で与えられることがあれば、相手の行動によって暗黙のうちに与えられるということもあるでしょう。

特に言語によって与えられる場合ですが、そしてまだ関係が浅い、というかほぼ初対面のような場合ですが、極めて外的で、はっきり言えばあまりにも下らない要素、つまり表面的な所属とか業績とか経歴とか、そういったものに即した評価がなされがちです。

そうした評価は無視すればよい、というのもひとつの考え方ですが、無視すればよいとししても無視できないのが人間という弱すぎる生き物の性です。何かを感じて、一喜一憂するわけです。

「気にしなくてもいい」としたり顔で言う人は、そもそもその弱さの虜になっているわけですね(本当に気にしていないなら話題にすらしないでしょう)。

喜ぶほうはともかく、落ち込むほうになるとあまりいい効果を生まないので、対策は考えておく必要があります。そんな弱さを前提しつつ、どうしてゆけばよいのかな、ということについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


外的な要素、学歴だとか経歴だとか所属先だとかあるいは金銭的なものは、誰であれ人間のほんの一部分に過ぎないわけで、そうした部分を根拠にして下される評価や判断が実に表面的なものであるというのは確かでしょう。

アイデンティティの大半を学歴や金銭的な部分に賭けている人もいないわけではないのかもしれませんが、学歴を持っている人からすれば学歴は多くの場合にどうでもよいものになるわけですし、金を稼いでる人からしてみれば金というものはどうでもよいものになるわけです。ポジショントークだと言われても、事実なのだから仕方ありません。

とはいえ、どうでもよいものを根拠に判断されることは、ある程度避けられないことでしょう。

初対面でいきなり「内面を見ろ!」と言われても無理な話ですし、内的なものは行動に反映されるわけで、そこに環境要因が絡んでこそ本人の外的な履歴になるわけで、つまり内面と外面は端的に区別しうるわけでもありません。

であるからには、外面に即座に反映されるわけではない内面があるにしても、ある意味ではそうした評価の材料になってしまう極めて外的な要素と、そして簡単に下される評価とどう向き合っていくか、ということには、常に気に留めておかなくてはならないでしょう。

単純にそうした評価を受けたくないのであれば、評価することができる要素を表に出さなければいいのです。何億稼いでいますなどという人は、自分の収入で人柄や態度を判断されたくない場では、収入を公表しなければよいのです。自分の所属や肩書きで評価されたくない人は、所属や肩書きを公表しなければ良いのですね。億万長者が自らの財産を隠して配偶者を選ぶことの背後にも、戯れに掃除夫に身をやつす企業経営者も、どこか遠いフィクションの話かもしれませんが、そういう効果を持つものです。

それでも公表しているとすれば、やはり肩書きや見かけの収入などによって釣ることのできる人の目(と何らかの利益)というものがあるからでしょうし、実質とか内面のような付き合っていかなければ判断できない何かに全てを委ねるという判断をしていないからこそ、肩書きなどの目に見えやすい評価基準を使うのでしょう。これは普通のことであって、寧ろこれから先はどこかしらでやっていく必要性の高いものでしょう。

それに、そんなどうでもよいものであっても評価にさらされる、そしてその評価に際して何らかの感情が動きうるということを考慮してみると、あるいは評価されて何かを思ってしまうという事実を振り返ってみると、結構色々なことを学ぶことができます。


例えば、東大やその付属的な機関に所属しているというだけでも、全く意図せざるやっかみや憎しみの類を向けられることは少なくありません。あるいは全く関係のないところから、大した関係も持っていないのに、寧ろ初対面なのに、「東大は○○だからダメなんだ」とか「東大生は勉強ばかりしているから〜〜なんだ」とか言われることもあります。

私が東大に入ったとどこかから聞きつけた親戚からわざわざそんなことを言われたときには「とうとう私にもお鉢が回ってきたか」と思ってニヤニヤしてしまいましたが、本当にあるんですね。私や「東大生」に限らず、誰に対してでもあっても、ほとんど関係のない目の前の個人に暴言を吐いたりお説教をしたりして何かいいことがあるのかはちょっとよくわかりませんが、そういう人もあるんですね。

果たしてそうした人たちが、一体何人の東大生や東大卒の人間を見てそのように言っているのかはわかりませんし、きちんと他の大学の人と比較したのかも知りませんが、寧ろ私の見るところでは、東大卒とか東大生だとかいう集団は、東大に関係があるという点を除けば、ひとくくりにして語れるようなものではありません。もちろんこれは私が東大の中に入り込んだ経験のある人間だから言えることですし、内部から見ているからこそ失われてしまう客観性や説得力もあるかもしれませんが、「勉強ができる」「世帯収入がわりと高い家庭に育っている人が多い」くらいの凝集性しかありませんね。

ステレオタイプは、あらゆる場合にそうであるように単なる言語的フィクションなのですが、それはともかく、フィクションは多くの人に真実であると思い込まれる限りにおいて、現実的な効力を持ちます。

東大生であるというだけで色眼鏡をかけて見てくる人たち、つまりの物事の(相手の)実態を少しも見ようともせず、剰えに断罪しようとする、端的に言えば敬意と誠実さを欠いた人たちからはなるべく距離を置こうと思って、そしてそのためのひとつの方策として、なるべく大学の中で生活してきた私であっても、そのような愚かしい——とはっきり言いますが——判断に基づいた攻撃をされることはしばしばあるということです。


こうした人とははっきり言って関わりたくないと思っていますが(笑)、このように粗雑な推論をもとにした主張をわざわざ口に出して言ってくる人がいるということは、少なくとも気にしておいてよいのでしょう。そして、わざわざ言ってくる人の背後には、恐らくその10倍ないし100倍は、「東大」という文字列を見た瞬間に反射的にそうした負の気持ちを覚える人がいる、と思っておくほうがよいでしょう。

であるからには、そうした評価を下されうる、ということはある程度は覚悟して生きていておかなくてはならないな、と思わされるわけです。

ともかく私も、そうした評価を下されることがあると、はっきり言って「あ、こんなことを言ってくるこの人は(勉強も学歴も何も関係無く)バカなんだな」と思ってはみても、多少心は動きますし、少なくとも「バカなんだな」と思ってしまう時点で負けであるという感はあります(笑)。無感動を装ってはいても、何らかの意味で心を動かされてしまうということは、或る意味で相手に負けているという成り行きです。

とはいえ、こうして心動かされてしまう、というのも大切な経験ではあって、そう見られて嫌だと思うならば、そう見られないように何かしら努力するか、あるいはそう見られることのない・馬鹿げた言葉を向けられることのない場所に移動するか、できるのですね。

こんな具合に、外的要素に対して下される負の評価というものも捨てたものではありませんし、負の評価に対して何かしら気持ちを動かされるとすれば、そこを起点に理性的な考えを走らせてみることができるわちけです。そうした評価を受けないように頑張ろうと思うか、あるいはそうした評価を受けない場に身を置こうと思うわけで、歩み方を考えるきっかけにはなるわけです。


もう一つ極端な例を挙げるのであれば、東大ないしはその関連機関に在籍しているというだけで褒められる、ということもあります。

東大生の多くは、天才やら神童やら、そうした胡乱な称号をあてられたことがあるわけですし、私も「天才」とは言われたことがありますが、言われるたび、「マジでもうやめてくれ!」という感じなのですね。才能に関する語彙が全て後付のものでしかないにせよ、少なくとも私に関しては、東大くらいには受かるのが「当然」という環境と、再現性の高い努力とがあっただけで、ことさらに才能豊かだとは思っていません。

最近では「知恵の巨人」などと言われてしまって、マジで実態にそぐわないからやめてくれ、巨人どころか小人以下、ミジンコだよ、寧ろ「痴の巨人」ないしは「恥の巨人」じゃないか、と思われていたたまれなくなりました。

流石にそうした言葉の一つ一つに敵意や皮肉を読み取ったりはしません。幸い私の場合に褒めてくれる人は、既に各々の分野で「成功」している人とか、他者をやっかむ必要のない人であることが多いので、そうした人たちが私を見て発してくれる言葉には少なくとも悪意はないと思っているのですが、それはそれで、「やめてくれ!」という気持ちになるわけですね。

大学の中だろうが、外だろうが、勉強とかという分野に限ってみても、私よりも遥かに効率よくやっている人間は掃いて捨てるほどいるわけです。後付の概念であるとはいえ、「才能」があるかどうかという点は、勉強はもちろん、芸術やスポーツについても語ることができるわけですから、勉強などという矮小な分野において一定の水準を超えた能力があるだけで「天才」などと言われるのは、あまりにも実態とかけ離れているので、恥ずかしくて「やめてくれ!」という気持ちになるわけですね。


とはいえ悪いことばかりではなくて、そうした評価を下されることで、多面にわたり一層励まねばならないなとも思われるわけですね。

東大関係者であるというだけで「天才」だとかいう態度の背後には、はっきり言えば私に他に褒めるべきところが見つからないから、仕方なく当たり障りのない(しかし言われた側は枕に顔を埋めて爆死したくなるようなタイプの)褒め言葉を言っている、という面が確実にあると思われるのです。

私が勉強以外の、あるいは勉強や研究以外のリソースを持っていれば、特に相手が十分に解像度高くとらえて言語化できるような実績を私が同時に持っていたら、「天才」だとか「優秀」だとか、私から見ると実態に即していないとしか思えない言葉ではなく、より実態に即した褒め言葉を用いることもできるとは思われるのですね。

抽象化するなら、狙い通りでない、どこか時宜を得ないように見える褒め言葉で心が大いに揺らぐのであれば、別のところでもしっかりと力量を発揮して顕示していかなくてはならないな、と感じられるわけです。


極端な例を見てきましたが、要するに評価を受けて自分が何を感じるか、ということは、自分がどうしていきたいかを考えるにあたって、極めて参考になるということです。

最初の例で言えば、相手が東大やその他のいわゆる高学歴と呼ばれるような大学に関係しているというだけで、いきなり「勉強だけできてもダメだ」などと説教をぶちかましてくる方々とか、大して東大生の知り合いがいるわけでもないくせに「東大は〇〇だから〜〜だ」などわざわざ根拠に乏しい自説を開陳して奇妙なマウントをとってくるような方々とは一切関わりたくありませんが、そのような評価を受けて「ああ、またかよ」「関わりたくねぇな」あるいは「(自分も)気をつけないとな」と思う瞬間こそが大切で、そのような不幸な事件が生じないように生き方を選んでいけばよい、ということに気づけるというわけです。

私から見れば、ちょっとズレているんじゃないか、あるいは過分じゃないか、と思われるような褒め方をされて恥ずかしくなるときには、相手が私を褒めうる要素を見つけあぐねて、どうにかその人なりに褒めてくれているのだなと思うわけですし、恥じなくて済む自分になろうと、あるいはそうした相手でさえも解像度高く褒めやすいような分野においても(もちろん自分が納得しながら)業績をあげていこうと思えるようになるというわけです。

別の見方をすれば、他者からの評価を起点として、「どう見られたくないか」ないしは「どう見られたいか」という点を反省することができるのですし、それは「どういう能力を養えばよいか」「どういう分野に行けばいいか」を判断することにも繋がるのではないでしょうか。

■【まとめ】
・正のものであれ負のものであれ、外部からの評価を受けて何かを感じたとすれば、それは歩み方や振る舞い方を修正・変革するチャンスになる。

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