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【265】seminarの語源から、多様かつ重層的に言葉を見ることへ

ごく簡潔ではありますが、語源を検討する能力を持つことの価値について、また広く言って自らの言語運用を反省することについて、見てみたいな、と思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


端的に言えば、ある言葉の語源を調べることができることの価値は、ある言葉に対する視角をいくつも持つことができるようになることであり、ある語を重層的に見ることができるようになる、ということだと思われます。

言葉というものは、あるいはある言葉の用法や意味というものは、その言葉単体として存在しているのではありません。周辺にある他の語との関わり、あるいは文や文章全体の中での役割といった観点から構成されていくわけです。

そうした文脈を豊かにする方策の一つとして語源を調べる力を持っておくというのは、極めて有効ではないかしらということです。

私たちは基本的に私たちと同じ時代を生きる人間の文章ばかりを読むわけで、古い時代の文章を読むのは一部の趣味を持った人か、あるいは専門家のみであるわけですから(この点、実にもったいないことだと思います)、私たちは基本的には同時代の文脈のみを根拠にしてある語の意味を語るのです。

少なくとも語源を探る能力を持っておくと、時代を横断しながら、それなしでは見ることのできなかったイメージの広がりをつかむことができるかもしれませんし、ことによると、現行の意味を転覆することさえできるかもしれません。

それは途方もない幸福ですし、ことによると実践的な価値をもたらしてくれるものでしょう。


もちろん今回は語源にクローズアップしてみていますが、同じことは外国語全般を勉強することにも通じる価値であると言えましょう。

外国語を学ぶことで得られる価値は、「外国人と喋れます! わーい! やったー!」とかいうことばかりではありません。もちろんそれはそれで一つの価値ですが、私がもっと重要だと思うのは、ものの見方・世界の捉え方のセットを自分の中にストックするということであると思われるのですね。

そのためのツールとして、外国語を学ぶというのはきわめて意義深いことだと思っているという次第です。


語源に話を戻しましょう。

例を見てみると良いと思うので、例を見ます。過去の記事も挙げておいて良いでしょう。……

【178】「紺碧」の空の背後、制約条件の少ない中でフレキシブルに生きる
【257】chanceの語源:サイコロ、ぼた餅、主体性

今回見るのはseminarという語の語源です。


セミナーという語はみなさんも聞いたことがあるかもしれませんが、極めて胡散臭いイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

「セミナー」という言葉の前に「自己啓発」とつけると途端に胡散臭さが30倍になるわけです。ともかく何かよからぬことを吹き込んできたり、情報商材を売りつけてきたりするのではないかと思われるわけですね。

しかし、もちろんそんなコノテーションは、seminarという単語の中には含まれていないわけです。

例えば大学で「ゼミ」と言ったら、それは実のところ「セミナー」と全く同じ言葉であるわけです。seminarに直接的に対応するドイツ語であるSeminärを略したのがいわゆる「ゼミ」です(ドイツ語では基本的に母音の前のsは濁ります)。「進研ゼミ」の「ゼミ」もここからきているわけです。日本の大学で用いられる言葉はおおいにドイツ(プロイセン)のそれに影響を受けてきたので、ドイツ語由来の語は私たちの気づかないところに多く眠っているのですね。

同源の語はフランス語(séminaire)にもイタリア語(seminario)にもありますが、これは一体どういう意味で、どういう広がりを持っているのでしょうか。


先ず私たちは、カタカナ語と西洋語の間に隔たりがないか、あるとすればそれはどういったものか、ということを突き止めるために、各国語の現代語の辞書を引くことができるわけです。

一般的に読める範囲として英和辞書を引いてみますと、『ジーニアス英和大辞典』において、seminarという項には「ゼミナール、ゼミ、演習」などといった語義が載せられていて、まあ概ね日本語と同じらしい、というよりも日本語で言うところの「ゼミ」とほぼ重なる、と思われるわけですね。

なお、「セミナー」っぽい意味はあまり強くありません。第5義には「(一般に)研究[討論](集)会」とありますが、このくらいでしょう。

そこでseminarという語がどこから来ているのか、英語の前にはどこにあったのか探してみよう、という問題意識が出てくるわけです。

直接的な語源としては、「苗床」「養成所」を意味するとされるラテン語のseminariumという語が(同辞書に)掲載されています。

より具体的に見るために、最も権威のあるラテン語の中規模辞書のひとつであるOxford Latin English Dictionary——なおハードカバー大判で2巻ですが、これはせいぜい中規模です——を引いてみますと、そこでは、seminariumという単語はsemenという単語と-ariumという接尾辞からなる、説明されています。

semenは「種」という意味であって、-ariumというのは接尾辞として「場所」を表すものです。

semenについて言えば、これは英語では精液を意味する言葉ですし、そこから「種」という動きを推測することもできるかもしれません。フランス語だとsemerは「(〜の)種を蒔く」という意味です。

あるいはseminalという形容詞を思い浮かべられる方もいらっしゃるでしょう。「種に関わる」という意味でもあれば、「精液に関連する」という意味も持ちます。

ともかくseminariumという単語は、ラテン語の辞書を引いてみれば、第一義として若い苗木を養うところ、つまり苗床として説明されるわけですね。

なおこの「苗床」の意味は、英語ではseminaryという語のうちに保存されます(このseminaryは、或る時代のスコットランド英語では、seminarと綴られていました)。


この「苗床」ないし「種の場」のイメージを出発点に、seminariumがどのように「ゼミ」になっていったかを考えるにあたっては、英語よりもラテン語に近いフランス語やイタリア語を引くのが助けになるでしょう。イタリア語はフランス語と殆ど同じですので、手元に資料のあるフランス語で満足しましょう。

フランス語の、権威のある6巻本の大辞典であるLe Grand Robertを引いてみると、最初期のséminaireという語の意味としては、カトリックの聖職者の養成所、というものが想定されているのですね。厳密には、7つある位階のうちの最上位である司祭職に就こうとする者を養成するところとされるわけです。

つまり最初期にこのフランス語にséminaireという語が現れたときには、この語はもっぱら、聖職者を養成する機関として位置づけられていたわけです。

これがだんだん、全般的に若い人を何らかの意味で養成・教育する場所として捉えられるようになり、19世紀後半になると、「特に大学において教授やその助手によって指導される、そして学生が主体的に参加する勉強グループ」というかたちで定義されるようになります。これは実に、「講義(cours)」と対照づけられる定義であって、私たちが日本語で思い描く「ゼミ」に近いでしょう。

さらにLe Grand Robertには、この意味に対する補足項目として、Réunion d'ingénieurs, de techniciens, de spécialistes pour l'étude de certaines questions「特定の問いに関して学ぶための技師や技術者や専門家の集い」という意味が挙げられており、これは私たちの「セミナー」のイメージほどカジュアルではありませんが、一応は関連する、と言えそうです。

「種」が育つ場であったseminariumが、一般にものや人が、特に聖職者が育つ場所というイメージに転換され、そこから私たちが「ゼミ」という語において想像される大学における「ゼミ」のイメージが出てくるというわけで、さらに大学に限らず、なんらか勉強をして人が育って行く場所としてのséminaireというものが構想されるようになるわけです。

このようにして、どうにかこうにか「種の場」と「セミナー」を結びつけることができるようになるわけですね。

(補足として言えば、フランス語において、「苗床」の意味はpépinièreという語に委ねられます。 そもそも「種」を意味する語はもはやラテン語のsemenとは関係ないところから出てきたpépinないしnoyauになります。前者はぶどうや林檎のいくつもある種を、後者はひとつの果実にひとつしかないさくらんぼや桃の種を指しており、この前者を育てる場として、「苗床」を意味するpépinièreという語が生成されます。)


「種の場」
→「苗床」
→「(特に聖職者の)養成所」
→「大学のいわゆるゼミ」「何であれ集まって学ぶところ」

という流れからイメージをどう展開させていくかはもちろん個々人の自由ですし、皆さんがそれぞれに置かれた状況に即して行っていただければ良いのですが、

あくまでも個人的に思われるのは、「苗床」であるところの「セミナー」において、主体がどこにあるのか、ということです。

文字通りの「苗床」であれば、主体は育てている人間だけかもしれませんし、その人間はひょっとすると種を蒔いたのと同じ存在かもしれません。

翻って、「ゼミ」や「セミナー」ということを考えると、そこには複数の主体が関与するので、イメージにいささかの混濁が生じるかもしれません。しかもその混濁は、単純な解決を許さないものです。つまりその場において、「種」はどこにあるのでしょうか。

「種」は、参加者自身が持ち寄るものなのでしょうか。あくまでも「ゼミ」や「セミナー」は「苗床」であって、つまり寝かせて育てるべき諸要素は、参加者が持ち寄るのでしょうか。この場合、与えられるのは水であり、養分であると言えるかもしれません。

あるいは「ゼミ」を主催する教員や、「セミナー」の講師が、参加者の精神に「種」を蒔いてくれるものでしょうか。そうした「種」を、私たちはただ単に受け入れていれば良いのでしょうか。こうしたイメージは即座に、私たちこそが空虚な入れ物、空虚な苗床である、というイメージに結びつきます。

もちろん「セミナー」と、ラテン語のseminariumはもはやあまりにも遠いものになってしまったので、ここに関して正解となるようなイメージはないと言っても良いでしょう。

しかし、場面に応じて「今日は種をもらうか」「今日は肥料もらっとくか」などと考えることはできるわけで、自分が当座何をしているか、ということについて分析する余地が生じているということは言えるでしょう。この余地はまさに、語源に遡ることで得られた果実です。

以上を抽象化するなら、語源に遡ることで、私たちは何らかのイメージを繁茂させることができるのであって、そうしたイメージは実に私たちが言葉に対して、それゆえ言葉を介して見られる世界に対して既に持ってしまっているイメージを攪乱し、ときに転覆させるのに役立つ、と言うことができるでしょう。

つまり既存の世界観に手軽に亀裂を入れるための、自らの認識のありかたから手軽に距離をとる方策として、語源を検討する作業を位置づけることができるということです。


……というわけで皆さんも、こうした試みにわずかでも魅力を感じられるのであれば、ある言葉の語源は何かな、ある言葉の背景には何があるのかな、ということを考えてみたり、調べてみたりすることを習慣にされるとよいかもしれません。

西洋語ではハードルが高いというのであれば、漢字を漢和辞典で熱心に引いてみる、ということを出発点にしても面白いでしょう。たとえば「滑稽」がどういう経緯で「滑稽」を意味するのか、とか、検討してみると面白いですよ。

あるいは一念発起して、外国語を学んでみるのも良いのかもしれません。というのも、今回のような遡り方は、英語ができるというだけでは満足にできないことですし、世界の見え方はおおいに変わってくるものです。ある範囲については、解像度もかなり上がります。


さらに拡張するなら、別に外国語に限定するまでもなく、自らの言語運用のありかたを集団を幅広く持っておくことは持っておくことで、過去・現在・未来の事柄を解釈するための手札は大いに広がることでしょう。

外国語や語源を例にして述べましたし、これはこれで特有の重要性を持つ、ということは最初に書いた通りです。が、要は言語に対するアンテナが立つ装置であれば、自らの言語運用に対する反省を強いるものであれば何でも良いのです。

私の場合はたまたま外国語を人よりやっていて、そうした観点から解釈格子を複数持っていて、しかも説明しやすいというだけの話です。

何であれ自らの既存の言語運用のありかたを、単語に対して持っているイメージを突き崩しうる方策の例として挙げたものであって、その方策は他に幾つもあるでしょう。

異なる言語を話しているという意味では、(母語を共有していても、また同じ言語で話していてもなお)身近な他人でさえもそうなのですから、人と議論を行うということもまた似たような効果を生みうるものです。

具体的な水準についてはともかく、自らの言語運用を反省する方途をいくつか持っておくということは、世界に対する解釈のための手札を増やすということです。そしてこの前提は即座に、自ら世界に納得のいく意味を与え、あるいは都合のよい意味づけを行うための、基礎的な体力になるのではないかと思われます。

■【まとめ】
・語源に遡ることは、自らの運用する言語から距離をとり、イメージを繁茂させ、反省を促すきっかけになる。

・外国語やら語源やらにこだわる必要はないが、自分が無意識に採用している言語運用のありかたを反省するための方途は、いくつか持っておいてもよいだろう。