白川ユウコの昭和ノスタル少女伝~少年サンデーと大叔父の松葉杖

松葉杖つきつつわれに大叔父が買いてくれたる少年サンデー


Mixiコミュ「サルでも詠める短歌教室」、今年の「第十回サル短賞」で一位になったこの作品の自解を書く約束だったので、書きます。

 「かみあしのおじさん」と呼んでいたのは、住んでいるのがとなりの区域の「上足洗」だったこと、足が不自由でいつも松葉杖をついて生活していたことが物心ついたころから頭のなかでごっちゃになっていて、そう呼びながらときどき家から歩いておじさんの家に遊びに行っていました。
 おじさんは、「アッコ(姉)は、来るなり、おじさん漫画ある―⁉と勢いよく入ってくる。ユウコは、…おじゃましまーす…と、おとなしくドアを開ける」と話していたとか。
 おじさんは、身体が不自由ながらも大叔母の家(さくらんぼの樹があった)の離れで助けを受けながら一人暮らしをしていた。平屋建ての1K、部屋には、昔の病院にあったような、高さのある白いパイプベッドと、たくさんの漫画と画材。ほかにも書籍もいっぱいあったはずだけど、子どもの私の興味を惹くものはそのぐらい。そのベッドの上で、ときには横になってやすんでいるおじさんの傍らで、漫画を読むのが私たち姉妹の楽しみだった。当時六十代のおじさんの枯れたような匂い、古い紙の匂い、新しい絵の具の匂い。
 おじさんは母方の大叔父。母の母の弟。1916年生まれ。尋常小學校時代は勉強ができず、もしかして視力の問題かと眼鏡をあつらえたらたちまち成績がぐんぐん伸びて級長に。末は帝大へ、という「神童」だったのが、五年生のときに高熱を出し、両足にリウマチ性の麻痺が残った。一命はとりとめたものの、医師の家系であり一族の残念はいかばかりだったかと思う。でも、その姉である祖母は「おかげでタイちゃん(泰、やすしがおじさんの本名)は兵隊にとられずに済んだ」、私の知る親戚もみなそのように、静かに暮らすおじさんを大切に思っていた。

 勉学の道、医者や軍人への道は断たれ、おじさんの才能は、絵を描くことにあらわれる。蕗谷虹児、中原淳一などのハイカラな少女の出てくる挿絵画家の模写から始まり、幼かった母が描いて描いてとせがむと、チカコ(母)に似ているといって松本かつぢ「くるくるくるみちゃん」の画風で「マンガのちかちゃん」という絵をこしらえてくれたり、かわいらしい紙工芸品も作って、たくさんいた姪やその娘たちをよろこばせた。おじさんにもらった「中原淳一画集その二」には、中原のほんものの版画が挟まっていて、今この部屋に飾ってある。
 御殿場で療養生活をした後、静岡に戻り、上足洗で生活。その近所の、同じ竜南小学校のエーコちゃんも、「あのおじさん、ユウコちゃんの親戚だったんだ。よく紙芝居を作ってみせてくれたよー」と話していた。

 柳新田商店街という小さな街道には当時、柳マート、スーパーくらみせ、薬の参天堂小林、リビングかわらさき、デンキのカタセなど、生活に必要なひととおりの小さなお店はあった。「くじや」という駄菓子屋は、店主の根性の曲がったババアが小学生から小銭をちょろまかしたり理不尽ないやがらせをしたり悪評が高く、1個5円からあるお菓子や籤やおもちゃや静岡おでんの魅力に抵抗できない子どものわれわれにとってババアは悩みの種だったけれど、ここには週刊誌や漫画雑誌も売っており、おじさんはここまで松葉杖をついて「小学一年生」「小学三年生」「ちゃお」「りぼん」「なかよし」そして「週刊少年サンデー」を買いに行っていた。スペースからするとそんなに種類は置けないので、たぶんおじさん用にババアが注文を受けてくれていたのか。因業ババアはおじさんによくしてくれたのが現世での唯一の功徳かもしれない。
 少女雑誌は、私の家に同居していた祖母にもねだれば買ってもらえたけれど、サンデーは別格。アニメにもなり大人気だった「うる星やつら」は、「子どもに悪影響を与える」と新聞などに書かれて我が家では読めず、おじさんの家ならではの楽しみだ。(ほかに「悪書」として挙げられていた「パタリロ!」もおじさんの部屋で読めた。)

 当時、1980年初頭のサンデーに載っていて記憶にあるのは、うる星やつら、さよなら三角、火の玉ボーイ、六三四の剣、スプリンター、わたしは真悟、みゆきだったかなんだったか全作のキャラの見分けがつかないあだち充作品…など、現在でも人気のある錚々とした漫画家たちの作品が目白押しだった。ちゃおやりぼんは私たちへのサービスも兼ねての購入で、おじさん自身の本命はサンデーだったのだろう。「おじさん、絵を描いて」と頼んだら、スケッチブックにさらさらっと、虎の皮のビキニ姿のラムちゃんを描いてくれた。國學院大学出身の高橋留美子先生の漫画は、台詞運びやストーリーはかなり小学生の理解を超えたレベルの知性で構築されたもので、子どもの私たちにとっては新しい単語や言い回しなどを学ぶことができ、非常にのめりこんだ。しかしなんといっても、セクシーでキュートなヒロイン・ラムちゃんの魅力。虎のビキニの半裸で宙に浮かぶその姿こそ教育の敵でありわれわれの憧れ。そして、おじさんにとっても、現在の言葉でいえばまさに「萌え」であり「推し」だったのだろう。
 おじさんの部屋では、そういえば「週刊少年ジャンプ」はあまり見かけた覚えがない。当時だと、父の床屋さんについていってそこでブラックエンジェルズや三年奇面組が載っているのを読んだ記憶がある。この後にDr.スランプの連載が始まり、ジャンプの進撃が開始される。サンデーは、究極超人あ~る、To-yなどのちょっと大人っぽい世界になってゆく。

 その後、おじさんは、加齢によるしんどさや、大叔母の体調などの事情で、焼津市の老人病院へ転居、晩年は静岡市富沢の病院で過ごした。寝たきりになりながらも、見舞いに行く母チカコに口述筆記をさせたりして俳句、短歌、童話などを、NHKや新聞や市民文芸や県民文芸に応募し、よく賞をとったり採用されたりして、賞品の図書券やボールペンなどをくれた。母に「寝たきりになってもできる趣味があるといいぞ」と話していたといい、これは私が短歌を続けている動機のひとつになっているように思う。

 そして、「一番楽しかったのは、上足洗で暮らしていた、アッコやユウコが遊びに来た時代だったなあ」と語っていたときいた。おじさんの楽しかった時代は、週刊少年サンデーの一番おもしろかった時代で、私たち姉妹がもっとも屈託のなかった時代。
 私たちは、とても幸せだった。あのころの少年サンデーは、そんな記憶とともにある。

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