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そぞろ歩きの弥生の宵

 都内の桜はもうピークを過ぎてはらはらと可憐な花弁が躍る。昨日は「目黒川沿いも満開」と聞き、自分の都合と関わりなく盛りを迎えては消えていく季節の恵みを逃してはならぬとばかり、仕事を終えて夕刻にいそいそと出掛けた。

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 確かにもう花のない枝なども見え、川面に花筏が登場するのも間近いように思われるほどの咲き誇りぶり。18時も過ぎていて人並はまばら、日中ともなれば目黒川あたりは写真を撮る人でごったがえしている。けれどライトアップというような感じではないので、写真を撮ってもスマホカメラではさほど見事な花ぶりを伝えられる仕上がりにはならなかった。それでも充分、今年も変わらず春の訪れの祭典のようにして咲いてくれてありがとう。

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 日が落ちても充分にあたたかく、10分も歩くと大変に汗ばんでしまう。川沿いを最後まで歩くと中目黒に出る。駅前の混雑を避けたく、東山の方へ入るとしばらくして完全に道に迷った。私は超ド級の方向音痴で、15年以上住んでいるエリアでもいつもと違う道を曲がると迷子になるので、これは充分に予想がつく話なのだが、道に迷ってもよい、と思って見知らぬ路地を適当に歩いた。このところの習慣として、歩きながら「お、あのマンションいいな」と無意識に引っ越し先を探すようになっている。実際に明確な引っ越し予定は持たないのに、どこかアタリをつけながら歩いて、マンション名を口中で幾度も繰り返し覚えて、帰宅してから検索して相場感を知る。昨夜も道に迷いながらそんなことをしていた。

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 しばらくするととっくに汗は引き、脚に疲労を覚え始めて時計を見ると、迷子になったと知ってから優に30分は経っており、「before迷子」でそぞろ歩いた時間を入れると結構な時間が経過している。これはそろそろ危険か?と思い、帰宅したい方向へとルート検索をするとここから歩いても20分ほどあるようだ。うんざりしつつ歩き続けると突然見知った場所に出た。「ということは、ここから本当に20分以上かかるな…」とさらに憂鬱になり、見知った帰り道ではない道をなぜか選択した。なんとなく自分は、絶対に山で遭難してはいけないタイプと確信した。

 すると蛇崩緑道に出た。じゃくずれ、と読む。いかにも地盤が悪そうな地名だが、住んでいる場所から中目黒方面にクルマで出るときに、方向音痴でも案内できるように暗記している地名だ。タクシーでも必ず「蛇崩からでいいですかね」と聞かれる。これは近い。家はもうすぐ。いや、クルマだから近いのであって、蛇崩って遠くないか…?と思い煩いつつ驚くのは、緑道沿いの桜並木の素晴らしさだった。道沿いを巨木が並び、人がまったくいないなか静謐に雄弁に存在している。ここは穴場だな、と、地元民は絶対に穴場とは思っておらず人気スポットだろうと思いつつも心弾む。

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 途中にしつらえられているベンチでとうとう腰を下ろした。既に1万歩近い。ということは7キロ近く歩いている。本当は目黒川で桜を少し楽しんだら駅前でコーヒーを飲みながら新聞を読もうと持ってきたのに、何もできずただ帰宅するために歩いていた。おかしな話だ。

 その間、思い出したように4月の居酒屋の予約電話を入れた。長いこと約束していながら叶わなかったもので、神泉あたりにある古びた居酒屋に行ってみたいと思っていたのだ。大将はやさしく穏やかな人柄を想像させたが、平時の自分であったら寸暇を惜しんでこの電話を自分都合に話して切り上げようとしたろうと思う。しかしなにぶん迷子で疲労から休憩している状況なので、大将の立場に寄り添って話をできることがよかった。そこは魚介がとても評判のよい居酒屋なのだが、大将いわくこの時期、あまり仕入れがうまくできないこともあるので、できれば食べたいものを言ってほしい、そうしたらそれを目指して仕入れてくるから、とおっしゃる。

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 大将のお見立てでよいのですよ、と言っても逆にそれは困るような口ぶりだったので、お刺身の好きな同行者に好みを聞いて明日折り返すと約束をした。大きな声で私の名前と電話番号を復唱する大将の声に、店内に響き渡っているかと思うとやや心もとない。電話を切り上げて文字通り重い腰を気合をいれるようにして上げると、残りわずかな帰り道を急いだ。

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