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ドゥ マゴ パリという普遍

 年明けを目前に控え、夜が明ける前のごく刹那に感じられるおごそかで純粋、限りなく透明なひとときによく似た雰囲気が街に漂っていた。とりわけ都心からはぐっと人が消え、からからに乾燥したビル風がいとも自在に広くなった建物の間を吹き抜けていく。この期間限定の空気感をことのほか自分は愛する。その日は1年に1度しか逢わない女性の先輩と、間もなく長期休館を余儀なくされる渋谷のBunkamuraにあるカフェ「ドゥ マゴ パリ」でブランチをする約束だった。

 「ドゥ マゴ パリ」を提案したのは私だった。Bunkamuraが近くクローズすることを忘れていた先輩はショックを受け、それであればぜひそこに決めましょう、と即決をしたのだが、実のところ私はドゥマゴに赴くのは実に2回目でしかなく、そのうちの1回目もかの先輩に連れられて20年近く以前に訪れたきりであった。初めて訪れたとき、その日常的洗練のシンプルなリズムの美しさに驚嘆し、かの先輩の日々はかくも美しいものか、と思われ小さく衝撃を受けた。あまりに素敵な体験であったため、自分のような者が生活に取り入れ触れることは冒涜に思われたのだった。これがもし、見た目にもそれとわかるほど豪奢でわかりやすい美としての顕れであったなら、年齢と共にそこに個人的体験を得てゆくことを自分に許すことができたかもしれないが、普通の日を上質に暮らす延長にあるその美には、おいそれとにわか仕込みで近づくことを自分に許可することができなかったのだった。

 近いのでかなり安穏と支度をしていると、いつのまにか時刻がだいぶ迫っていて結局タクシーを駆るはめになった。けれどクルマであれば10分程度であり、徒歩と電車で向かうより実のところはるかに時間短縮が叶う。到着すると先輩とほぼ同時であり、入り口前で対面することができた。ドゥマゴの素晴らしさはその日も新鮮に感動を覚え、変わらないものの価値をまざまざと見せられた気がした。帰り際にいわゆるセルヴーズ(女性給仕ですね)に聞いてみる。「Bunkamuraが休館したら、こちらはどこかに仮移転するのですか?」と。おそらくは幾度も聞かれやや辟易ともし、かつご自身がもっともその点について心境複雑であろう女性はあえてハキハキと「いえ!まだ何もわかりません!」と笑顔で答えた。

さすがに店内を撮るのは憚られた。オープンエア席を去り際にさっと流し撮り…

 美学。

 食事をしながら互いの日々のうちわけを語らっていたなかで、かつての仕事上のボスが定年退職をされたこと、いつからか1年に1回飲む仲になったがどうしても気軽に誘ってもらえないこと、別れ際にはいつも、「とても楽しかった。次回は私から誘うよ」とボスは言うのに。と私が言うと先輩は「あのね、それは美学よ」と、食後のカフェを口に運びながら彼女は言った。

 「いくら双方が年を取ったとはいえ、かつて“若い女性”であるときに知り合った仕事関係者の男性は、美学がある人ほどおいそれと自分から声をかけたりしないのよ。邪な気持ちなんて互いにもっていないことは誰よりも自分たちがわかっていても、マナーとしてというよりもやっぱり個人の美学において上司として知り合った男性からかつての部下である“若い女性”に声をかけないものよ」と続けた。私だけでなく、彼女ももちろんかつての“若い女性”であり、同じようにどんなに仲が良くなっても、今もって自分から声をかけないように線を引かれている仕事関係者の男性はいるのだそうだ。ふうん、そういうものかしら、とそのとき私はさっと流してしまったのだけれど、じわじわと味がしみ込んでいくようにその言葉を反芻している。なんだかわかる気がするからだ。

 向田邦子さんがエッセイか何かで、一人暮らしの女は日常がふとしたときに出てしまうから、普段の生活をこそ丁寧に美しく過ごしていないと外でだけにわかに取り繕うことはできない、というようなオソロシーことを言ってらした記憶がある。「今だけ。外に出たらちゃんとするし」というような言い訳を自分に許し、放埓なままに日々を過ごしていたら、おそらくそれは習慣となり「ふとしたときに」修正することなぞできなくなっている。

 今夜、このようなことを…とりわけ日常の延長、そこに佇むひっそりとした美学に基づき構築されたミニマルな美しさについて思い馳せたのは、ゲランの「夜間飛行」を真実知ったからであろうと思う。そういう小さな覚悟が必要な香りである。つまり、「夜間飛行」をまとってもよい人間であるのかを誰よりも自らが許可が出せるかを問われるわけである。

《余禄》とても参考にしている“La Parfumerie Tanu”さんのブログ記事で、香水はパルファム、オードトワレなど濃度違いによる香りの違いがあるなか、“夜間飛行”においてはパルファム一択!と言い切られていて悩む…。大変高額である。


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