オールドファッションド
好きな文章の傾向というのがある。読んでいて心地が良いので、自然自分もそうした傾向を真似ていくようになる。具体的に言うと、物語の筋のない文章が好きだ。これは前も書いたけれど、芥川と谷崎論争につながる話かもしれない。もちろん、しっかりと物語としての軸、筋があってちゃんと結していくストーリーも好きではあるのだが、筋のないただ淡々と「好きな文体で」つづられていく文章は、読んでいて癒しが起きると思う。
江國香織さんのエッセイなどがそう。もちろん淡々としつつも「これが主題なんだろうな」と思わせるものもぼんやりとあるのだが、このぼんやり加減が絶妙で、びしっと提示される文章はこちらも理解の態勢が問われるので襟を正して向き合うことになる。けれど、曖昧に境界を引き、作者の感じた世界をこちらもどう感じてもよいのですよ、という自由な文章からはやわやわと土に雨がしみ込んでいくようなヒーリング効果が感じられる。
岩波書店の「20世紀アメリカ短篇選」上下巻、これはそういった意味で実に気に入っている。20世紀前半は、2022年を生きる我々にとってはあまりに遠く、そして意外に近い。親近感を覚えるほど身近でないため、時代と異国の情緒を酔わせるほどに感じさせてくれる。その代わり、この短篇集の小説はいずれも大きな物語の筋書きがない。ともすると「あ、、、そうなんですか、、、」みたいな終わり方がいかにも線香花火の終末を思わせる。
けれど、筋書きに頼らない物語に主張がないのかと言えばそんなことはなく、読後の独特の余韻や当時の世相風俗、それを背に生きる登場人物たちの会話やふるまいなどの活写から、作者が思うところはこれか。とひたひたと焦点が定まっていく。これもまた醍醐味である。物語を介して、おそらくは作者の感性をなぞる行為が快感に近いのかもしれないと思ったりする。
そう書いてきて、では詩などはその最たるものではないか?と思ったりするのだが、自分は詩においては非常に疎くって、逆に筋がないと心を動かされないほどには鈍感だと思う。過去、とりわけ好きだったのは、島崎藤村の「初恋」。これは中学時代にそらんじて暗唱していた。高村光太郎の「智恵子抄」、これはバイブルと言えるほど愛読し、いっときは常に文庫を鞄に忍ばせていたほどだ。いずれの作品も、抽象的過ぎることなく言わんとしていることが明確で、そこに慕情がある。
反対に、中原中也に夢中になってみたい、と自主的に思ったけれど中也は私には難しすぎた。独自の感性による抽象世界に立ち入ることが許されなかった凡人なのだと思う。
たまに、よく晴れた空やビルの向こうに沈む夕日を眺めていると「智恵子抄…」とかつぶやいてしまったりする。ある時、「本当の空がない?」って切り返されたことがあって驚いた。驚くと同時に妙にその人に関心をもってしまったりする。
あなたも、あの物語を経由して生きてきたのですね、と。