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旨い鮨の功名

 昨夜は母と同居以来のルーティン、「月イチごはん」の日。家にこもって一人でどこにもいかない母が気の毒で、また、私自身の愉しみにもするために始めたものだ。東京中を範囲にしてよいのなら、無制限においしいものを選べるがクルマ社会から来た母は、公共交通機関での移動がものすごく苦痛らしい。そこで自然と歩いていけるかバスで済む範囲としている。

 長年親子をしていても、知らないことはまだ多くあって、母はなんとお鮨が好きなんだそうだ。そりゃもちろん、「好きなほう」くらいには知っていたが、ことのほか好きなんだって。初耳である。それで、今月の「月イチごはん」をお鮨にすべく、「近所・徒歩圏内」「おいしいけど高すぎない」ことを条件に検索を開始。高すぎないとはいってもそこはお鮨、ふつうのジャンルより割高になるのはガマンガマン。よさそうなところがあって予約を入れる。

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 実際、昨日に至るまでの自分というのは、このプライバシーのない生活に限界を感じていた。これは住宅事情が大きくて、利便性の高い立地で2DKを格安に住めているのはめっちゃ建物が古いから。もともと仕事する部屋と寝る部屋を分けたくて2DKにしたのだが、リビングにしかエアコンがついていない。それなので毎年、真夏のエアコン時期はリビングに布団を持ち込んで寝る習慣となっていた。結局その期間は在宅していれば四六時中エアコンをかけているのだから、終日リビングで過ごすことになる。

 今年の夏は初めて母がこの家で暮らすため、結果として二人して布団をリビングに持ち込み、かつ終日その部屋で共に過ごすことになった。朝は6時に起きて布団を上げ、一日を始める母。もちろんその段階で目が覚める。そして夜は9時半には就寝するので、私は小さなライトをつけて過ごすが音も立てられずぶっちゃけなんにもできないので、日中母が新聞を読むために持ち出せなくなった新聞を、寝る前に読んで就寝するというストレスフルな夏となった。

 それがやっと!!エアコンがなくても眠れる季節が到来し、我々はこの週末、やっと寝室に戻ることとなったのだ。

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 さっそく金曜の夜から寝室とリビングがかつてのように機能を取り戻すと、私は就寝までの間、明るい部屋で好きなように時間を過ごすことができ、寝室で眠る。その後も母は朝になれば寝室を出てリビングなりに行くため、母の生活雑音で目覚めることがない。ずーっと眠ることができるうえ、テレビを見たいのに遠慮しているかもしれないな、ほんとはこうしたいかもな、と絶えず気を遣う必要がなくなった。

 そしてそして、土日の私の定番な過ごし方である、クッションの係累をベッドにつくってもたれながら好きな音楽をかけ、山ほどわかしたコーヒーと過ごす時間。これがこの週末は戻ってきたのだ。

 かまってあげなくて、同じ部屋で同じように過ごさないことで若干母に気の毒な気もするが、もう私の限界だったので精神的な健康を取り戻すためには仕方がないと思っている。まあ、そういった背景がありながらの「月イチごはん」に行った、という話をここからしたい。

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 その鮨屋は、信じられないほどにぎわった商店街を横に入った、静かな場所にあたたかな灯りが目印のお店だった。のれんをくぐると一瞬で心がなごむような雰囲気が店内に満ちていて、このお店の持つパーソナリティーが伝わってきた。

 はじめ、お任せコースで予約をしていたのだが、最近母の食が細いこともあって、前日に電話をし直して席だけの予約に変えてもらっていた。しかし、そこはメニューが出てこなかったのでためらっていると、「お腹の様子と相談しながら適当に出しましょうか。最初からにぎりで行ってもいいですし、最初すこしつまみますか?」と大将が声をかけてくれた。なので、おまかせしながら進むこととした我々。

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  突き出しというのか、それらももちろん期待を喚起するに余りあったのだが、にぎりが本当によかった。変な話、この年になると高級でおいしい鮨の経験値は無論あって、それらと比較したらどう?という観点でいうならば実際、比較する気持ちは全く生まれずに、とにかくおいしく楽しい鮨であった。

 母とカウンターに並び、鮨が好きだという母が喜んで食べていた。互いに生活のぎすぎすしてしまうことなど話もせずに、ただおいしい鮨を味わうという口福を堪能できたことが素晴らしい時間だった。

 なんか、そういうことでいいと思った。いや、思えたのだ。

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  すべてを言葉にしたら互いに傷つくだけであって、言葉にして伝えることで直してくれたり直したりするのだろうけれど、決してそれは思いやりからではなく、「注意されたから怒られないように」というスタンスなんだと思う。どの組み合わせにおいてもそうなるのではなく、これはいまの私と母の場合。そうなったら余計に気詰まりで楽しくない日々に拍車をかけるだけである一方で、言わないことでストレスをため続けていって健康的な暮らしが営めるとも思わない。

 旨い鮨を食べた。ただそれを堪能し良い時間を共に過ごした。

 そのあとはプライバシーを守った生活を選んで、少し母を孤独にさせるかもしれない。けれどそれは、互いのために。

 もうそれでいいのかも、自分ひとりでできないことは旨いものを食う、という行為で助けてもらうことでいいのかもしれない、そう思った。

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